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日本文学史に数々の名作を残した作家の三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地で衝撃的な死を遂げて25日で、50年の節目を迎える。戦争の時代と終戦を経て高度経済成長期を駆け抜けたその生は、雑誌や新聞、テレビなどメディアの成長期とも重なった。インターネット空間が拡大し、メディアのあり方が変容する今、その45年の生涯を振り返る。
低く、大きな音をたてて報道のヘリコプターが空を飛んでいた。1970年11月25日――。文芸評論家、川村湊さんは当時、法政大1年生だった。あの日、東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地近くの大学キャンパスにいた。
「三島由紀夫が自衛隊に立てこもったらしい」
友人から話を聞くと、興奮が抑えられなくなった。駐屯地に向かって走り、途中で機動隊に制止された。小説は好きでも、過激な政治思想を唱える彼の発言は冷ややかに見ていた。「それでも、自衛隊で自決する死に方には驚いた。三島は世の中のことを真剣に考えていたことだけは間違いなかったと思った」
家に帰る気が起きず、そのまま友達と新宿に飲みに出た。周りの誰もが三島の死について語っていた。
「童貞は一刻も早く捨てよ」大衆の中に自己をさらす新たな知の形

現在から見れば、一作家の暴発のようにも映るその死がなぜ、当時の人々に衝撃を与えたのか。理由の一つは、50年代後半の高度経済成長期と重なった彼の30代以降の生き方にあった。
若者たちの恋を爽快に描く『潮騒』、壮麗な文体で金閣寺放火犯の内面に迫る『金閣寺』。名作を連発していた三島由紀夫は58年、「不道徳教育講座」と題したエッセーの連載を始める。
1回目の掲載は、集英社の「週刊明星」創刊号。若者向けの大衆誌だ。同号の目次には、その年、巨人軍に入団したプロ野球・長嶋茂雄選手と金田正一選手との対談、「皇太子独身最後の大旅行!?」と題した皇室記事などが並ぶ。
<知らない男とでも酒場へ行くべし>
<童貞は一刻も早く捨てよ>
三島はその連載で硬派な文学者のイメージからほど遠い柔らかな文章を用い、酒場や男女交際などについて書いた。
当時、出版界で週刊誌ブームが起きていた。56年に新潮社が、「週刊新潮」を創刊。週刊誌は全国に取材拠点を持つ新聞社しか作れないと言われたが、作家の読み物などを生かした親しみやすい誌面作りが人気を集めた。58年に「週刊ベースボール」「週刊大衆」、59年には「週刊少年マガジン」「週刊文春」が創刊された。三島はこの新たなメディアの状況に飛び込む。様々な雑誌にエッセーや小説を書き、取材を受けてゆく。
竹内洋・関西大東京センター長は、「人々の学歴が上がり、週刊誌が広まったこの時期は、従来の『知的文化/大衆文化』の区分では分けられない『中間文化』が生まれた。三島は人々を
雑誌や映画…多彩なメディア活動も空虚さに直面
三島の挑戦は続いた。59年には映画俳優として映画会社、大映との契約を発表。同年12月の「週刊明星」には「ニュー・フェイス三島由紀夫“センパイ”フランキー堺と大いに語る」と題した「俳優対談」が掲載され、翌年、映画「からっ風野郎」が公開された。30歳で始めたボディービルで肉体を鍛え、63年には細江英公の写真集『
だが一方で、小さな影が心に広がり始める。満を持して挑み、<完成の朝には、
三島文学を研究する井上隆史・白百合女子大教授は、「『鏡子の家』の不評を埋め合わせようと、三島は雑誌や映画に出た一面もあっただろう。最初は楽しく自己発信するつもりが、自分を消耗させる悪循環に陥ったのではないか」と語る。
拡大し、多様化するメディアに合わせ、多彩な活動を展開し、セレブのように振る舞う三島は、その空虚さに直面した。
井上教授は、SNSを通して誰もが表現者になれる一方で、炎上などのトラブルも起きやすいネット社会の今、「三島が味わった悪循環の21世紀版を、誰もが強いられている」と語る。メディアの時代の落とし穴に三島は、いち早くはまりかけていた。(文化部 待田晋哉)
◆三島由紀夫
1925年生まれ。東大法学部卒。大蔵省入省後、9か月で退職して執筆活動に入る。49年に長編『仮面の告白』を発表し、57年に『金閣寺』で読売文学賞。70年に『豊饒の海』第4巻「天人五衰」の原稿を書き上げた後、自衛隊駐屯地で自決した。
三島文学の魅力を語る
三島文学の魅力は、どこにあるのか。新潮文庫の『春の雪』に新たな解説を寄せた作家の小池真理子さんと、三島をモデルに死なずに生きのびた老境の作家を2011年の小説『不可能』で描いた松浦寿輝さんに聞いた。

三島由紀夫の自決は、私が高校3年のときでした。それまで『仮面の告白』などを読んでいましたが、強い衝撃を受けて他の作品も読みふけるようになりました。若いころの私にとって三島は常に、死と隣り合わせにいる作家でした。
でも、死に向かうベクトルの中で書き続けていても、三島は
『豊饒の海』第1巻の「春の雪」の解説に、「悲劇の果ての果てに訪れる老成」がにじむ作品を読みたかったと書きました。作家は自身の病や老いや別れと闘いながら書き続けるものです。完璧に演出された死がなかったら、老いた三島はどんな作品を書いたのか興味があります。(談)

「息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました」。三島由紀夫が亡くなったとき、作家の武田泰淳は、こんな追悼の言葉を残しました。まさに、彼はかわいそうなほど、生真面目に書き続けた一生ではなかったでしょうか。
10代の頃の三島は『花ざかりの森』のような
自己顕示欲も絡んでいたのかもしれないけれど、一方で自らの文学を築くことへの強い意志は揺るがなかった。『仮面の告白』や『金閣寺』、『豊饒の海』4部作。文学の太い山脈を残し、変わりゆく時代を泳ぎ切ろうとした。刻苦勉励に努め、消耗した末にあの死へと突き進んだのです。
社会性が全くなく、小説のことだけを考えている、例えば『楢山節考』の深沢七郎のような作家にはかなわないと思っていたのかもしれません。あふれる才能があっても、自分は作家として偽物という意識があったのかもしれません。(談)
若い才能に好奇心、親切で優しい人
三島は若い芸術家たちと交流した。中でも自決するまでの約6年間、深くつき合った一人が詩人の高橋睦郎さんだ。
「小説家の三島由紀夫と申しますが……」
1964年末。勤務先の広告制作会社の電話が鳴った。高橋さんはそれを昨日のことのように覚えている。その年の9月に2冊目の詩集を出版し、面識のない三島にも送っていた。

東京・銀座の中華料理店で、三島は丁寧に料理を取り分けてくれながら、詩集への賛辞を述べた。3冊目の詩集の
そこから交流が始まった。バーで語り合い、詩作がスランプの時には励ましの手紙をくれた。「小説は土の上に立っている建築物だが、詩は空中にある楼閣のようなものだ。そんな素晴らしいものと君は関わっているのだから、頑張りたまえ」。その時の言葉は今でも響いている。
「三島さんは様々なメディアに書き、多くの仕事をしたが、心の中には索漠たるものを抱えていたのではないか」と高橋さん。「自分が出会った人の中でも最も重要なキーパーソン。自分にとって三島さんは今も目の前に