完了しました
天正10年(1582年)、本能寺で織田信長が討たれると、徳川家康は明智光秀に追われる身となった。随行した服部半蔵正成ら伊賀忍者が護衛して伊賀国を通過させ、半蔵は後に伊賀忍者の頭目になった――。一般に「神君伊賀越え」と呼ばれる“事件”だが、「『甲賀伊賀越え』が真相では?」と訴える人がいる。

滋賀県甲賀市甲南町の甲南地域史研究会メンバー、村井栄一さん(71)と谷和幸さん(56)だ。家康一行は大阪・堺から南山城、信楽を経由して峠を越え、伊勢に抜けて船で三河へ帰ったとされる。村井さんらは昨年9月、信楽から北寄りに甲賀を抜けたとする説を提唱した。
きっかけは、村井さんが中学生の頃、このルート沿いの山へ炭焼きに行った際、父が「この道は昔、信楽の人が甲南、甲賀へ行く際に通った山道や」と言ったのを思い出したことだ。実際に踏査し、▽本能寺の変の前年、信長に攻められた伊賀の人々に見つかりにくい▽比較的平たんで、馬やかごで急ぐことも可能――と確認。甲賀忍者たちが勝手知った抜け道で家康一行を通した功績から、江戸時代に旗本や代官などに取り立てられた、と推論した。

通過点の1か所とみている天台宗明王寺(甲南町磯尾)には“証拠”のような品が受け継がれている。家康以降の徳川将軍4代の
村井さんと谷さんに案内され、ルートの一部約10キロを歩いた。原生林に囲まれ、行き交う人影もないが、踏み固められた跡の残る古道だった。2人は定期的に木を伐採し、歩道を整え、観光ルート化への可能性を模索している。
村井さんは「現地を歩くと、どれだけ時が流れても変わらないであろう雰囲気と歴史のロマンを肌で感じるんです」と話している。