完了しました
「私は、本当に歌うことが好きで」。2時間弱に及ぶ取材の中で、彼はそう何度口にしただろう。1988年にデビューしてから、いや、その前から。歌を、音楽を、愛し、生きてきた。

「もしも私が家を建てたなら 小さな家を建てたでしょう」(小坂明子作詞、作曲「あなた」)
先月18日発売のカバーアルバム「ROMANCE」の1曲目。歌い出しを聞いて、驚いた。なぜ、こんなにも
中島みゆきの「化粧」や岩崎宏美が歌った「ロマンス」――。収録された名曲への挑戦は、改めて「歌うこと」と向き合う時間でもあった。ピッチや高さなどを変えて何度歌い直しても、最初に歌ったデモ音源の出来を超えられない。何かが欠けていることに葛藤した。「歌がうまいと思っていたんだ、俺。これまでは練習して練習してモノにしていたのに、新鮮な歌にはかなわないんだと。自信を失いもした。この経験は、ソロをより分厚く、充実させるものになるように思う」
児童合唱団の募集に母の目が輝く
そもそも歌は、気付けばずっと身近にあったもの。何より、今は亡き、母親が大好きだったもの。
家の中でも外でもしょっちゅう歌っている人だった。東京・赤羽で育った幼少期。正月は、家族で川崎大師(川崎市)へ行くのが恒例だった。車中、母は「田舎のバスはおんぼろ車……」と歌い始め、いつ覚えたのかという最新曲まで、ずっと歌声を響かせた。

宮本自身は、本当はドラムをやってみたかった。幼稚園では、見よう見まねでバチをたたいて遊んだ。テレビでドラム教室の募集を見て、「やりたい」と訴えたが、聞き流された。しかし、東京放送児童合唱団(現・NHK東京児童合唱団)の募集が映った瞬間、母親の目が輝く。要項をメモし、すぐに応募。「自分も好きだし、この子も好きだろうからやらせようと思ったんでしょう」。2歳で、まだ言葉もつたないのにピンキーとキラーズの「恋の季節」をよく歌っていた宮本。そんな姿を母はしっかり見ていた。
「習字や塾、色々行ったけど、嫌だと辞めちゃうの。でも、歌だけはずっとやってさ。おかしなもんだよね」
小学2年の頃に入った合唱団では、歌い方の基礎を学んだ。特に、腹式呼吸は徹底的にたたき込まれた。夏休みは、東京・渋谷のNHKに通い、朝から晩まで練習。学校行事へ行かずに合唱団の合宿に参加するほど、熱心に取り組んだ。ひたすら歌う日々に、「これは厳しい世界だ」と子供心に思った。
ジュリー見ながら「こんなすてきな歌手になったらいいわね」
76年には、歌唱を一人で担当した「はじめての僕デス」がNHK「みんなのうた」で放送された。大変であっても、ワクワクすることばかり。楽しさが勝っていた。だが、成長と共に、親に反抗する思いが芽生えていく。5年生頃に合唱団を辞めた。
将来は会社員にでもなろうかと思っていたら、歌がうまいと聞きつけた友人に誘われ、中学でバンドのボーカルを始めた。それが、エレファントカシマシ。そこから、54歳の現在まで歌い続けてきたのである。
今でも覚えている。小学生の頃、テレビでジュリー(沢田研二)が歌っている姿を一緒に眺めていた母親が言った。「あんたもこんなすてきな歌手になったらいいわね」。結局、歌の道に導かれたわけだ。
「『絶対、私に感謝する時が来るわよ』と言ってたけど、まんまと歌手になったわけだから。親の愛情というのか、エゴというのか。影響力は強いですよね」。感謝の思いを問うと、「いやいやいや」と、恥ずかしそうな苦々しそうな、何とも言えない顔をした。
革命児たちはみんな1番、それがロックだ
「ROMANCE」は、アルバムチャートで初登場1位を獲得した。エレファントカシマシでデビューしてから32年、悲願の「1番」だ。「ビートルズやレッド・ツェッペリンら、革命児たちはみんな1番になっているし、それがロックだと私は思う。だから絶対に必要なことだと思ってきたんです」
正直、バンドを始めた時分は、そこまで「売れる」ことを考えてなかった。だが、ある頃から、明確に意識し始めた。デビュー後、レコード会社との契約が切れた20代後半のことである。
文・池内亜希
写真・米田育広