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手塚治虫・蔦監督・相田みつを…動画でふれる珠玉の名言<3>

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 新年度で気分を変えたい人に贈る名言集の第3回。古今の名作に登場する珠玉の言葉などを紹介したコーナー「名言巡礼」から、手塚治虫、高校野球の蔦監督、相田みつをのメッセージを取り上げます。
 (見出しや写真をクリックしてください。動画のテロップは公開当時のものです。「名言巡礼」は、言葉の説明の後に、動画公開当時の原稿を抜粋して紹介しています)

「漫画家を目指すんだったら、漫画で勉強しなさんな」

 手塚治虫が1950年代に後輩の漫画家に繰り返し説いた言葉。手塚は「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などを世に送り出し、新しい表現方法でストーリー漫画のジャンルを確立。63年にはテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」を成功させ、アニメ文化浸透にも尽くした。
    ◇
 終戦翌年の1946年、17歳の若さで新聞の4コマ漫画連載を始めた早熟の天才、手塚は、生涯に約15万ページの漫画原稿を描き、漫画を子供の娯楽から、世界に通用する文化へと昇華させた。
 この、時代の先導者は、52年に関西から東京に移り、53年には豊島区椎名町(現南長崎)にあった木造2階建てのアパート「トキワ荘」に入った。54年には同区内の別のアパート「並木ハウス」に転居する。この時期、ふたつのアパートに手塚を慕って訪れ、あるいはトキワ荘に入居した後輩漫画家たちに繰り返し言い続けたのが、「漫画家を目指すんだったら、漫画で勉強しなさんな」だった。
 どう勉強するかというと、「いい映画をたくさん観(み)なさい。いい小説をたくさん読みなさい。いい音楽をたくさん聴きなさい」。手塚の担当編集者から転じて73年に手塚プロダクションに入社、手塚のマネジャーとして16年にわたり間近で働いた松谷孝征・同プロダクション社長は、「手塚本人の体験もあって、言いたかった言葉だったのでは」とみる。若くしてデビューし、雑誌の連載をいくつも抱えるとおそろしく忙しい。しかし手塚は、仕事場で大音量のクラシック音楽をかけ続け、原稿を待つ編集者の目を盗み、映画館に出かけた。移動の車中で、分厚い本をすさまじい勢いでめくるのも、松谷さんは目撃した。
 トキワ荘は82年に老朽化のため解体された。だが、2009年ごろから周辺住民の間で「漫画による街づくり」の機運が高まっている。トキワ荘の近くに、赤塚不二夫が部屋を借りていた時期があるアパート「紫雲荘」は現存し、若者2人が、夢に向かって漫画を描き続けている。(名言巡礼 手塚治虫「漫画家を・・・」 豊島区南長崎、2015年6月14日公開)

「人生は敗者復活戦ぞ」

 甲子園にその名を刻む徳島県立池田高校野球部監督だった蔦文也さん(1923~2001年)の言葉。蔦さんは徳島商で3回甲子園に出場、同志社大でも投手として活躍した。終戦後、社会人野球を経て、50年にプロ野球「東急フライヤーズ」に入団するが、1年で退団。実家のある池田町(現三好市)に戻り、社会科教師として教壇に立ちながら、40年間、野球部の監督を務めた。
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 池田高校は、紛れもなく山の中にある。
 蔦さんはここで、1952年から野球部を率いてきた。92年に退くまで甲子園へと15回導き、優勝3回、準優勝2回。とりわけ82年夏、83年春の連覇では、金属バットの特性に着目した筋力トレーニングを背景に、「やまびこ打線」と称された圧倒的な攻撃力を示した。「高校野球を変えた」とされる名将である。
 だが、初出場を果たしたのは71年の夏。足かけ20年、山あいの町で、もがき苦しみながら過ごしてきた。なぜか、届かない。学徒出陣し、特攻隊員となった際、死と向きあう日々に覚えたという酒を毎晩、飲み続けた。
 76年4月に同県高校野球連盟がまとめた冊子に、蔦さんは「私の野球は負けからの出発でありました」と寄せている。「負けることは不名誉なこととは考えません。不名誉なことは、負けることによって人間が駄目になってしまうことだと思います」と続く。負ければ終わりの甲子園で、比類なき強さを発揮する以前、再挑戦し続けた日々を支えたのは、「野球とは違い、人生には敗者復活戦がある」との信念だったのだろう。(名言巡礼 蔦文也の言葉「人生は敗者復活戦ぞ」 徳島県三好市、2016年6月5日公開)

「しあわせはいつも じぶんのこころがきめる」

 相田みつを(1924~91年)が亡くなる1年前の1990年に完成させた書の題。この文言は30歳前後から書き始め、仮名遣いや書体、レイアウトを少しずつ変えながら書き続けた。当初は「自分」「心」が漢字で、50歳代に入ると「じぶん」が平仮名に、最終段階ですべて平仮名となった。
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 相田は旧制栃木県立足利中学校を卒業後から短歌と仏法を学び、19歳で書家を志して岩沢渓石(けいせき)の弟子となり、書の修業を積んだ。30歳で毎日書道展に初入選し、技巧派の書家として頭角を現した。
 しかし、時を同じくして、「技術だけでは、人を感心させられても、感動させることはできない」という信念のもと、自らの平易な言葉を独特の書体で書く作風に入っていく。相田は晩年、自身の作品集で「私は書という形式を借りて、人間としての本来的なありよう、本当の生き方を語っているだけ」と述べている。
 相田の従来にない作風は書、詩ともに長らく評価されることはなく、ろうけつ染めや包装紙デザインで生計を立てていた。全国各地で個展を開いていたものの、広く知られるようになるきっかけとなった、初の作品集「にんげんだもの」の出版は還暦の時。その7年後、67歳で脳内出血により急逝する。創作者としては苦難多き道のりであった。
 裸の人間として創作に向き合ったからこそ、これほどまでに数多(あまた)の心に響くのかもしれない。(名言巡礼 『しあわせはいつも』 栃木県足利市、2014年12月21日公開)

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1954505 0 エンタメ・文化 2021/04/03 10:30:00 2021/04/06 16:55:13 2021/04/06 16:55:13 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/03/20210326-OYT8I50103-T.jpg?type=thumbnail

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