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新型コロナウイルスの感染拡大以降、「利他」という考え方が国内外で注目されている。深刻な危機を乗り越えるために、自分本位な行動や競い合いよりも他者と支え合う道を模索するのは、必然ともいえる。もとは仏教の言葉だが、ビジネスの世界でも使われており、インターネットで寄付を募るクラウドファンディングや持続可能な社会を意識した消費行動の広がりなどは、その反映だろう。
利他に関する複数の著書を手がけた批評家の若松英輔さんは、「利他は人間の本質であり、自然な営み」と説く。今の社会で「他者のために生きる」とはどういうことなのか、なぜ利他が求められているのかを語ってもらった。(編集委員 古沢由紀子)
他者なくして存在し得ない自分

利他は、他者のために行動するということだけでなく、自分も他の人がいなければ存在し得ないという現実を、深く自覚するところに原点があると思います。コロナ禍をきっかけに広がった面はありますが、日本では約1200年も前から使われている古い言葉なのです。
競争社会では、暗黙のうちに誰かを蹴落としていくことが日常になりかねません。人々の分断、格差も強まっている。そうした出口のない状況で待ち望まれていた言葉だったのではないでしょうか。
利他とは何かを考えるとき、鍵になるのは「つながり」と「弱さ」ではないかと思います。利他への目覚めには、様々なところに契機があります。コロナ禍だけでなく、大災害やロシアのウクライナ侵攻のような事態が起きると胸が痛む。それは、遠く離れた場所であっても見えない「つながり」を感じているからです。
私は東京工業大学で2020年2月に発足した「未来の人類研究センター」の利他プロジェクトに、様々な分野の研究者らとともに参加しました。コロナ禍以前からテーマは決まっていましたが、利他についての論考を学外にも広く発信し、潮流をつくった意義があると思います。
大学で「人間文化論」の講義を担当し、若者と接して気づいたのは、さまざまな「弱い」立場の人のことを考えるのが難しくなっている傾向です。「誰かを支えるなんて考えたこともなかった」と率直に発言した学生もいました。常に人より秀でるように促され、受験を勝ち上がってくるなかで、弱さや苦しみをどう分かち合うか、能力を自分以外の人のために用いるのかという問題を、真剣に考える機会が少なかったのかもしれません。頑張れない人に原因があるという自己責任論が、深く浸透しているような気がしました。
それは若者の責任というより、今日の社会の反映です。対話をすれば、若者は変わっていきます。「君自身は心身ともに強くても、大事な人が弱い立場になれば、君もまた弱くなるかもしれない」と伝えると、「自分は自力で存在しているのではなく、人とのつながりのなかに生きているんだ」と素朴な事実に気づき、ドキッとしたような実に強い反応が学生たちからありました。問題は、政治、経済、教育といった場面で社会を動かしている人たちの側にあるのではないでしょうか。