読売新聞オンライン

メニュー

大手町アカデミア×人間文化研究機構 講演要旨「近世江戸は災害都市だった! 連続複合災害について考える」

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

現代に通じる災害対策の難しさ

渡辺浩一国文学研究資料館教授(左)
渡辺浩一国文学研究資料館教授(左)

 国文学研究資料館の渡辺浩一教授が2020年12月16日、大手町アカデミアと人間文化研究機構による特別講座で、「近世江戸は災害都市だった! 連続複合災害について考える」と題して講演しました。飢饉、水害、疫病、地震などの災害が連続して複合的に起こった江戸時代の天明期や安政期は、風水害や新型コロナウイルス禍が重なり合う現代と共通点が多く、昔も今も変わらない災害対策の難しさを改めて浮き彫りにしています。

自然改造が水害被害を増幅

 江戸時代、火災はきわめて頻繁に起きました。それなりの規模のものが年2回ほど、死者が出る火災は10年に一度ほどの頻度で起きています。日本の歴史上初めて、大規模密集空間が江戸に造られたことが背景にあります。水害も、火災ほどではありませんが、3年に一度以上、死者の出る大水害は30年~50年に一度のペースで起きています。そもそも、江戸が建設された場所が利根川と荒川の河口域にあり、そうした自然を改造したため、さらに水害に遭いやすい場所になってしまいました。

 地震による大規模な被害は1855年の安政大地震だけですが、感染症も頻繁に流行しました。数十年に一度は大流行があり、インフルエンザと思われる風邪や麻疹などが流行しました。大規模密集空間で生活していたことが被害を増幅させました。特に、1780年代の天明期と1850年代後半の安政期は「連続複合災害」の時代でした。幕府が1792年に設置した町会所は、1830年代の天保飢饉では30万人~60万人に対して10日分の食料を支給。安政大地震とコレラ流行の後にも同様に大規模な救済を行いました。

町会所で飢饉対策

 天明期には、まず1783年に浅間山噴火が起こり、関東平野の主要河川は泥流と火山灰で河床が上昇しました。それが3年後の大水害の原因となります。また、83~84年に有名な天明飢饉が起こり、84年夏には疫病が流行しますが、これも飢饉による体力低下が原因と考えられます。84年、85年に大火があり、翌86年には関東大水害が起きます。その後、麦の凶作や米価高騰に対し、幕府は小規模な食料支給を行いますが、それでは間に合わず、寛政の改革で町会所が設置されます。

 町会所は米と金を備蓄するだけでなく、救済を行う政策決定のプロセスを変えました。以前は町奉行が町民に米や金を与える場合、老中に上申して許可を得た後、老中が勘定奉行に諮問して承認を得るという複雑なプロセスがありました。町会所には町奉行と勘定奉行の部下が出向しており、町奉行と勘定奉行が協議して、大規模な「異次元の救済」をすばやく実施できるようになりました。

 水害対策では、隅田川の流れを阻害し、洪水被害を増幅していた造成地を撤去したり、高潮の被害を受けた深川洲崎での住宅建設と居住を禁止したりしました。深川洲崎の住民は堤防を修復したうえで住み続けることを要望しましたが、民意は無視されました。

安政コレラは「2密」も原因

 1850年代の安政期には、大火が3度あり、大地震、巨大台風、コレラの大流行もありました。55年の安政大地震では約7000人が死亡し、町人地だけでも1万7477軒の建物が倒壊しました。56年の安政東日本台風は、昨年の台風19号並みの巨大台風と考えられ、関東・信越・東海・東北南部など広域に被害を及ぼしました。江戸の町人地では死者は60人と少ないものの、1万軒近くの建物が損壊しました。多くの建物が損壊した原因としては、前年の地震で仮普請の建物が多かったことや建物が弱体化していたことが考えられます。

 58年7~9月に流行した安政コレラは、長崎に入港したアメリカ軍艦ミシシッピー号が感染源で、そこから東に進んで江戸まで到達したと言われています。しかし、ミシシッピー号は長崎の後、下田にも入港しており、下田からも感染が広がったと私は考えています。大流行した条件としては、1居住環境の「密集」「密接」という二つの密、2巨大都市での活発な人間の移動、3「震災風損」による食生活の悪化、4コレラ菌が生育しやすい高温――が考えられます。8月には町人地だけで1万2492人が亡くなり、江戸全体では3~4万人が亡くなったと推定されます。

「決められない政治」で対策打ち出せず

 安政期の連続複合災害に対し、幕府は町会所による白米支給や、建築資材価格と職人賃金の統制、低利融資などの不況対策を実施しますが、有効な対策を打ち出すことができませんでした。老中の提案に町奉行や寺社奉行が反対して結論が出ないなど、幕府の合意形成システムが裏目に出て、「決められない政治」に陥っていました。優先して行った軍事改革は実現できたのですが、「震災風損」不況を打破できないまま海外貿易が始まり、流通構造が激変した結果、物価が高騰。庶民の生活はますます苦しくなるなかで、時代は「明治維新」の政治過程に動いて行きました。

 1780年代の天明期と1850年代の安政期の災害対策には、明らかな違いがありました。天明期には寛政改革で直接的な対策を次々と実施しますが、強権的でした。安政期には新しい対策は一つもなく、寛政改革の枠組みで行われましたが、有効な災害不況対策を協議したものの実施できませんでした。こうした過去を見てくると、現在について連続複合災害の被害想定や中期的な影響想定が行われているのか、行われていたとしても、あまり周知されていないのではないか、ということが心配になります。

講演者プロフィル

渡辺 浩一氏 (わたなべ・こういち)
人間文化研究機構国文学研究資料館・総合研究大学院大学文化科学研究科 教授

 専門はアーカイブズ学および歴史学。主要単著は、『日本近世都市の文書と記憶』(勉誠出版、2014年)、『江戸水没―寛政改革の水害対策』(平凡社、2019年)。主要共編著は、『契約と紛争解決の比較史料学』(吉川弘文館、2015年)、Memory, History and Autobiography in Early Modern Towns in East and West, Cambridge Scholars Publishing, 2015.,『近世都市の常態と非常態―人為的自然環境と災害』(勉誠出版、2020年)。

無断転載・複製を禁じます
1817930 0 大手町アカデミア 2021/02/03 17:09:00 2021/02/03 17:09:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/02/20210203-OYT8I50038-T.jpg?type=thumbnail

ピックアップ

読売新聞購読申し込み

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)