[現代×文芸 名著60]言葉を楽しむ<16>過剰な文体の純愛物語…『夫婦茶碗』町田康著
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妻と二人暮らしの「わたし」は、生活を立て直すために職さがしに奔走する。「小熊のゾルバ」なる童話を書こうとするも書けず、そうこうしているうちに妻にはこどもが生まれ、現実と理想の生活の
地口や古めかしい言葉づかい、織田作之助や野坂昭如の系譜を継ぐ関西方言や意図的な反復などが盛りこまれ、過剰なほどにリズミカルな文体。しかし奇抜な文体的しかけと、著者がパンクロッカーでもあるという情報を一度とりさってみれば、残るのはどこまでもシンプルな物語だ。
ひとつは、日々の労働。「わたし」はペンキ塗りの職人になるが、日銭はほとんど手元に残らない。それどころか労働は生活のうるおいを奪っていく。電話帳で求人を探しても自分にできる仕事はない。工業化し、職業が専門化した社会で疎外される人間の姿が「わたし」なのだ。就職氷河期まっただなかに発表されたこの作品は、平成のプロレタリア文学だとも言える。
もうひとつは、愛。「妻と安楽に、末永く、ともに白髪の生えるまで暮らした」いと思っている「わたし」の姿勢は終始ぶれない。表面的な過剰さとは裏腹に、本作は
家庭を持ち、平穏に暮らすこと。そんなささやかなしあわせですら難しくなってしまった時代。生活が背景にあるこの作品は、前衛であっても切実なのだ。(秋草俊一郎・比較文学者)