[現代×文芸 名著60]社会と接する<31>作風に「やさしさ」新展開…『懐かしい年への手紙』大江健三郎著
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主人公Kは作家自身と重なる。四国奥地の村から東京の大学に進み、若くして作家デビューを果たすと、旺盛な執筆活動。学生運動が盛んだった時代、政治的な活動にも積極的にかかわった。
そんな彼は、師匠と仰ぐ「ギー兄さん」と交流し、故郷との絆を保った。ギー兄さんは故郷の村で高等遊民のような生活を送りつつ、その歴史と物語を守っている。Kには歴史家になれと勧めてきた。売れっ子作家となったKの人生は、右翼による脅迫、障害児の誕生など波乱に満ちていたが、ことあるごとに彼はギー兄さんの助言を受ける。
ギー兄さんは故郷の村でコミューンのような共同体の建設をめざすが失敗、その後、殺人の嫌疑で服役も経験する。やがて治水事業をめぐって反対派の恨みを買い、殺害された上、自身が開発に尽力した人造湖に捨てられる。
ギー兄さんはKの分身なのだ。彼が「そうであったかもしれない」人物。そのほとんど神話的な生き様を見やりながら、Kは自分の人生を総括する。その口調には哀切感や懐古の念も混じるものの、過去形とも現在形ともつかない大江特有の宙づり状態で展開される文章では、過去の神話や物語が、現在と未来とに向けてあふれ出すようにも感じられる。作中言及されるダンテやイエイツといった詩人たちの、異世界への感受性を存分に継承した作品なのである。(阿部公彦・英文学者)