[現代×文芸 名著60]社会と接する<39>殺人現場「怒」の血文字…『怒り』吉田修一著

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◎2014年刊。現在は中公文庫(上下各600円)。
◎2014年刊。現在は中公文庫(上下各600円)。

 『怒り』の出だしは、現実にあった事件とそっくりだ。

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 酷暑の夕刻、八王子の住宅街で異様な殺人が起きる。犯人は見ず知らずの家に侵入、若い夫婦を次々に殺害後、全裸で長時間現場にとどまり、食事をり、ソファーでくつろいだという。あの世田谷の一家四人殺害事件での、犯人の奇行を想起させる。

 人間には必ず不可解な部分がある。そことどう付き合うかは、社会が永遠に抱える難題だ。『怒り』はこの難題に正面から取り組むが、示されるのは単なる正解ではない。最後まで読めばタイトルの重みを感じるだろう。気楽な結末ではない。

 殺人の現場にはDNAや指紋などの証拠。被害者の血で書いた「怒」との文字。目撃者もいる。犯人の人相や名前も早々に判明。しかし、そこから捜査は難航する。

 その後の展開は、読者への挑戦をはらんでいる。犯人候補が三人出てくるのだ。千葉の漁村に流れ着いた田代。発展場の闇からあらわれる直人。沖縄の無人島に潜む田中。どの男にも陰がある。そして皆、なぜか人をきつける。

 『怒り』の読みどころは、この三人の男たちを理解し受け入れようとする人物たちの努力と信念とあきらめと悔恨の軌跡だ。迷い込んだ歌舞伎町の風俗街から父親の手で千葉に連れ戻される愛子。ゲイ仲間との派手な遊びにんだ優馬。母親の迷走に付き合わされる泉と、彼女に恋慕を抱く辰哉。

 彼らの理解の試みは成功したとは言いがたいが、その跡に美しい何かが残る。人物たちの多様な弱さを丁寧に書きわけるこの作家の腕前にはいつも感心する。小説には「わかった」と思わせるものもあれば、荒涼とした「わからなさ」をつきつけるものもある。吉田修一は「わかる」と「わからない」の境界線を、かなしさでつなぐ作家なのだ。(阿部公彦・英文学者)

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