[現代×文芸 名著60]生命を感じる<52>最北端の島 降伏後の惨禍…『終わらざる夏』浅田次郎著

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◎2010年刊。現在は、集英社文庫(上中下各630円)。
◎2010年刊。現在は、集英社文庫(上中下各630円)。

 国家や権力はときに圧迫的に感じられるが、非常時、とくに命の危険にさらされると、人は強いものの庇護ひごを期待しもする。コロナ禍の今、私たちは国家に対するそんな期待や失望を改めて痛切に体験している。

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 かつて日本が経験した戦争の惨禍は、現在の状況とは比べものにならない「非常時」だった。浅田次郎の『終わらざる夏』は太平洋戦争末期の混乱を、国家の戦略を担った参謀から将校、兵隊、軍属やその家族などに光をあてながら描ききる、文字通りの群像劇だ。

 中心にいるのは、出版社で翻訳書の編集を行う片岡直哉だ。どうやら和平交渉で重要な役割を任されるらしい。しかし、彼を含め、どの将校も兵卒も、自分たちが巨大な国家事業のどこに組み込まれるのかを知らない。満州(現中国東北部)の部隊は行き先も告げられず移動を命ぜられ、延々と行軍の後、ついに千島列島最北端に至る。ところが、そこへ無条件降伏の報。日本領土の最北端に集結した精鋭部隊は無傷のまま、武装解除するかと見えた。

 しかし、真のドラマがはじまるのはここからだ。敗戦の夏は簡単には終わらない。突如侵攻してきたソ連軍と、占守シュムシュ島を舞台に激戦が始まる。ソ連兵の「言葉が通じなかった。ただそれだけだ」という声が悲痛に、象徴的に響く。最後まで物語の中心に通訳の片岡が位置するのもそのためだ。

 国家は邪悪な支配者でも、頼りになる庇護者でもない。いるのは個々の人間だ。体や心があり、後悔や希望がある。しかし、非常時、彼らを支配するのは数字だ。兵力、食料、領土、時間……。無機質な数字が、切れば血の出る人間の人生を容赦なく裁断する。ここには忘れてはならない現実が描かれている。(阿部公彦・英文学者)

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