[現代×文芸 名著60]心に触れる<8>人の交わり 独自の文体で…『辻』古井由吉著

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◎2006年刊。現在は新潮文庫(590円)
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 文芸作品を書くとは、どういう行為か。それは書き手が作品にふさわしい文体を見出(みいだ)しながら、言葉の歩を進めることにほかならない。古井由吉は、現代の小説家の中でもとりわけその営為を明瞭に見せる書き手だ。古井由吉の特徴は、独自の文体を編み出すだけでなく、長年にわたりそれを育ててきた点にある。

[現代×文芸 名著60]全作品リンク集

 『辻』は、連作短篇(たんぺん)集。十二篇から成る。各篇を緩やかに(つな)ぐものは、書名そのものでもある辻だ。人にとって辻とは、歩み、迷い、途方に暮れてはまた進む場だ。追い越され、追い抜き、誰かの歩みと交わったかと思うと離れていく。

 父と子の愛憎、男と女のさまざまな縁、生の中の死、死の中の生。「後にしたはずの辻が、また前に現われる」とは、幻を描くようだが、あくまでも具体的な日常の諸相に沿って出来事が述べられ展開される。「お前、坂を引き返して来る途中で、立ち()まって振り返ったな、と父親は戻った女の顔を見るなり言った」という一行だけでも、ぞっとさせる。小説と厳しく向き合ってきた作者の、身体の底からの声音が響く感じがするからだ。

 本書は濃密なエロティシズムを漂わせる。それはエロティシズムという語すら(あお)ざめさせるほどの、深い官能だ。「知らない人に押し分けられて、わたしはどこかで見た広い野原をまた見ている、その野原になっているの、」という箇所などに行き当たると、これこそ文学を読む醍醐(だいご)味だなと思わずにはいられない。

 そこにあるのは、単なる意味の指示ではない。イメージの広がりが愉悦を招き寄せるのだ。ドイツ語詩や漢詩にも造詣の深い作者が、散文を追い詰める先へ結実させる小説の世界からは、言葉を読む(よろこ)びの波が何度でも打ち寄せる。(蜂飼耳・詩人)

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