一枚の絵で学ぶ美術史カラヴァッジョ《聖マタイの召命》 宮下規久朗著

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人生を支える杖として

評・栩木伸明(アイルランド文学者・早稲田大教授)

ちくまプリマー新書 950円
ちくまプリマー新書 950円

 10年前、著者の『カラヴァッジョ巡礼』を携えてローマへ行った。街角の教会に入り、ひとつの礼拝堂をのぞき込むと、壁の上部にはめ込まれた《聖パウロの回心》と《聖ペテロの磔刑たっけい》があった。別の教会では《ロレートの聖母》を見た。

 どれも巨大な油絵で、暗がりの中で強烈な光を浴びる群像が描かれていた。馬の尻や人間の足や白い手先が画面から迫り出し、聖人や聖母子は生身の人間そのものだった。

 今回の本はカラヴァッジョのデビュー作《聖マタイの召命》を読み解こうとする一冊。ミラノからローマへ出てきた若い画家は、幸運にも大きな教会の礼拝堂のために本作を描き、一挙に有名になった。時は1600年、宗教改革に対抗するカトリック改革の只中ただなかである。カラヴァッジョの鮮烈な写実主義が、宗教美術の刷新を目指す改革の精神と響き合い、バロック美術がはじまった。

 この絵には、5人の男たちが卓を囲む薄暗い空間に、一筋の光とともにキリストが入ってきた場面が描かれている。今まさにマタイがキリストの弟子として指名されようとしているのだ。ところが、5人のうちの誰がマタイなのかをめぐって、長年の論争があるという。

 著者はまずこの「マタイ問題」を提示し、時代背景、作者の伝記、主題の意味などを考えながら、絵を読み解いていく。礼拝堂内の光の効果や、鑑賞者が絵を見上げる角度など、現場で見るさいの勘所も重視される。10年前、あの場所で絵を見上げつつ、ぼくも静かに興奮していた。カラヴァッジョは「聖書の物語を日常で起こりうる現実のドラマとして表現」した、と著者は言う。人々はあの礼拝堂で、マタイにおきた神秘を自分のことのように体験するのである。

 最終章までたどりついた読者は、絵を見る体験を通じて、自らの運命を受け入れ、よりよく生きるための指針さえ得ることが可能だ、と気づかされる。遠い国の一枚の絵が、人生を支えるつえになりうるのだ。

 ◇みやした・きくろう=1963年、名古屋市生まれ。美術史家。神戸大教授。著書に『カラヴァッジョ』など。

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1290276 0 書評 2020/06/21 05:00:00 2020/06/29 14:39:13 カラヴァッジョ=飯島啓太撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/06/20200620-OYT8I50078-T.jpg?type=thumbnail

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