福澤諭吉の思想的格闘 松沢弘陽著 岩波書店 9500円
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真剣な批判的継承
評・苅部 直(政治学者・東京大教授)
「一身独立して一国独立す」。福澤諭吉が『学問のすゝめ』のなかで述べた言葉は、よく引用される。しかし、その背景にある思想そのものについては十分に説明されることが少ない。極端な場合には、利己主義や生存競争のイデオロギーと解されたり、国家による国民動員の提言として攻撃されたりする。
この言葉の奧には、かつて幕臣として活動しながら、王政復古ののちにすんなりと明治政府の官僚に収まってしまう、周囲の洋学者たちに対する批判があった。庶民だけでなくハイカラな知識人にも
また、新政府が進めた「文明開化」政策は、福澤自身が著書で説いた内容を多く実現するものであったが、むしろそこに危険性を福澤は見いだす。それは、「文明」の輝きによって人々の心を支配する、恐ろしい専制につながるだろう。そこで説いたのが、「自由」の気風と活発な討論を通じて、人々が秩序を支える主体となる「一国独立」の仕組みにほかならない。
松沢弘陽によるこの本は、時代背景とテクストの生成過程を綿密にたどり、福澤の思想を重層的に解き明かしている。「自由」な秩序とはいかなるものか。日本の文化を基盤にしながら、真に普遍的な「文明」の価値を実現するにはどうすればいいのか。そうした主題を、松沢は福澤と対話するようにして掘りさげてゆく。その過程にふれながら、読者もみずからその問いを考えることになる。
著者の思想史研究の師である丸山眞男についての論考も、収録しているところが意義ぶかい。福澤の思想を精細に読み解き、最後にその限界を指摘した丸山と、その丸山の読解をこえて、生と死をめぐる考察という、思想の根本へ迫ってゆく松沢と。学問と思想が一体となった、真剣な批判的継承の営みがここにある。