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評・苅部 直(政治学者、東京大教授)
イエス・キリストの死の物語を題材にした、J・S・バッハの作品『マタイ受難曲』の冒頭では、重い物をひきずりあげるような上昇音階を、低音楽器が奏でる。それは、人がみずからの罪に悩み葛藤しながら、一歩一歩、キリストに近づこうとする歩みを象徴している。バッハにとって音楽を作り演奏する営みは、そのまま信仰の実践だった。
約三十年前にバッハ・コレギウム・ジャパンを創設し、世界中で活躍してきた鈴木雅明が、演奏会のおりに発表した随筆を集大成した本である。バッハが楽譜にひそませた多くの仕掛けを解き明かしているが、著者によれば、それは時々の思いつきで挿入されたものではない。音符の一つ一つが、自然の内奥に息づく神の秩序へと整然と位置づけられているのであり、その秘密を読みとる精神が、演奏家には求められる。
バッハの生きた姿に関しては、同じ版元から同時に刊行された久保田慶一『作曲家◎人と作品 バッハ』に詳しい。二冊はともに、バッハの作品に親しみながら、音楽の美を超える世界に近づくための、味わい深い案内になっている。(音楽之友社、2860円)