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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第11回~三傑の死 維新に区切り

    木戸の病没

    • 明治維新の「三傑」。上から時計回りに、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(国立国会図書館ウェブサイトから)
      明治維新の「三傑」。上から時計回りに、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(国立国会図書館ウェブサイトから)

     西郷隆盛(さいごうたかもり)(1827~77年)、大久保利通(おおくぼとしみち)(1830~78年)、木戸(きど)孝允(たかよし)(1833~77年)の3人は、明治維新の「三傑(さんけつ)(3人のすぐれた人物)」と呼ばれます。

     もちろん、この3人によって維新革命がすべて成就されたわけではありません。彼らに匹敵するような人物が他にも存在したからこそ、「御一新(ごいっしん)」は成り立ちました。三傑といっても、この時代の変革を牽引(けんいん)した代表的な3人、というふうに受け止めた方がいいかもしれません。

     西郷は大久保の3歳年長、大久保が木戸の3歳年長でした。その3人がほぼ同時期に死去します。鹿児島の城山で西郷が「戦死」したのは1877(明治10)年9月24日、木戸は、戦争中の同年5月26日、京都で病没しました。

     政府軍の戦争勝利は、大久保の声望を高めました。

    • 東京・上野で開かれた第1回内国勧業博覧会の全体像を描いた錦絵(国立国会図書館ウェブサイトから)
      東京・上野で開かれた第1回内国勧業博覧会の全体像を描いた錦絵(国立国会図書館ウェブサイトから)

     大久保は、西南戦争最中の8月21日から、東京の上野公園で、第1回内国勧業博覧会を開催しました。農工業の奨励と貿易の発展を期す、大久保肝いりの博覧会でした。出品者は1万6172人、出品点数は8万4353点。大久保は、戦争が続いていても中止しませんでした。11月30日まで、102日間の会期中、45万人が入場しました。

     戦争が終わると、西郷と木戸はすでになく、参議兼内務卿・大久保にとって、まさに独擅場(どくせんじょう)でした。武力による政府転覆の時代は過ぎ去り、次代のリーダーと目された伊藤博文、大隈重信らの政治指導力は、まだまだ大久保に及ばないとみられていました。

    大久保の遭難

     しかし、大久保の運命はここで大きく暗転し、命を奪われることになります。

     78年5月14日午前8時すぎ、大久保は、太政官(だじょうかん)に出勤するため、自宅を馬車で出ました。東京(千代田区)紀尾井町の清水谷にさしかったところで、石川県士族・島田一良(いちろう)ら6人の襲撃にあい、斬殺されます(紀尾井坂の変)。

     島田は、戊辰戦争に従軍したのち、陸軍大尉にまで進みましたが、帰郷して民権結社を設立。西南戦争では西郷軍に呼応し、同志と挙兵計画を立てましたが、実行に至らず、「権臣要撃(けんしんようげき)」に転換しました。

     島田らが用意した「斬奸状(ざんかんじょう)」には、「公議を杜絶(とぜつ)し、民権を抑圧し、(もっ)政事(せいじ)(わたくし)する」など五つの「罪」が列挙されていました。

     大久保は、暗殺の日の朝、自宅を訪ねた福島県権令(ごんれい)山吉盛典(やまよしもりすけ)に、「兵馬騒擾(そうじょう)」が、ようやく平らげられた今こそ、「(つと)めて維新の盛意を貫徹せんとす」と語っていました。

     大久保は、維新には30年を要するとし、明治元年~10年までの第1期は「兵事多くして(すなわ)ち創業時間なり」、11年より20年の第2期が「最も肝要なる時間にして、内治を整え民産を殖するは此時(このとき)」にあるので、「利通不肖といえども、十分に内務の職を尽くさん事を決心せり」と続けました。

     そして21年より30年に至る第3期の「守成(しゅせい)」においては、「後進賢者の継承修飾するを待つ」と付け加えました。第2期の「10年」に向け、維新の完成に強い意欲を燃やしていた大久保は、凶刃により無念の最期を遂げたのです。

    三者三様

    • 徳富蘇峰(国立国会図書館ウェブサイトから)
      徳富蘇峰(国立国会図書館ウェブサイトから)

     ほぼ時期を同じくした三傑の死は、維新史の大きな区切りとなります。

     明治のジャーナリスト・徳富蘇峰(とくとみそほう)(1863~1957年)は、著書『近世日本国民史 明治三傑』で三人を論じています。

     それによれば、大久保は、「最善を得ざれば次善を取り、次善を得ざれば三善を取る」、いわば「徹頭徹尾(てっとうてつび)現実的政治家」でした。

     ただ、「人間味の分量」を比較すると、大久保より木戸、木戸よりも西郷の方に多くあり、その点は大久保の弱みでした。

     西郷は、その巨体とは裏腹に、何事にも「几帳面(きちょうめん)」な人でした。ただ、政治家として大久保が「満点」とすれば、西郷は決して「満点」ではなく、その欠点は、名利(みょうり)に淡泊で、仕事をしてしまえば、どこかへ黙って行ってしまう「高踏勇退癖(こうとうゆうたいへき)」にあるとしていました。

     剣客だった木戸は、彼が最も感化を受けた吉田松陰の言葉の通り「本来武人」です。物事を理路整然と語る「理念的政治家」であり、「立憲政治の大棟梁(とうりょう)」というのが、最もふさわしい称号でした。

     ただ、大久保が自ら「実行者」を任じていたのに対して、木戸は「主張者」を任じており、時に「感傷的になりやすく、往々愚痴を言う(くせ)」があったと付言しています。

    同時代人の視線

     同時代の政治家だった大隈重信(1838~1922年)はどうみていたのでしょうか。

     木戸については、「正直真面目な人であって、雄弁滔々(ゆうべんとうとう)奇才縦横(きさいじゅうおう)であるが、なかなか誠実な人」で、「詩も作れば歌も読む風流才子」と評していました。

     これに対して、大久保は、「辛抱強い人で喜怒哀楽を顔色に現わさない、寡言(かげん)沈黙、常に他人の説を聴いている、『()かろう』と言ったら最後、必ず断行する、決して変更しない、百難を排しても遂行する」と高く評価していました。ただし、「一見、陰気な方で、武骨無意気(ぶこつむいき)」でした。(『大隈伯百話』)

     また、米欧使節団の留守政府を預かっていた西郷については、「不平不満の徒の言動に欺かれやすく、加えて政治上の経験に乏しく、錯綜(さくそう)せる政務を裁理する能力は有りや無しや疑わしき程」と、極めて厳しい評価をくだしていました。(『大隈伯昔日(たん)』)

     他方、明治初期、新政府に出仕して大蔵権大丞(ごんのだいじょう)をつとめ、のちに日本実業界のリーダーになる渋沢栄一(1840~1931年)は、西郷について「(まさ)に将たる君子の(おもむき)」などと好意的な評価を示す一方で、大久保については「なんだか()やな人」などと否定的な見方をしていました。

    福沢諭吉「抵抗の精神」

    • 福澤諭吉著「明治十年丁丑公論・痩我慢の説」(慶應義塾福澤研究センター蔵)
      福澤諭吉著「明治十年丁丑公論・痩我慢の説」(慶應義塾福澤研究センター蔵)

     西郷は、当時の知識人からも存在が注目され、敬愛されていました。

     その一人、福沢諭吉は、西郷死去の報を受け、『丁丑(ていちゅう)公論(こうろん)』を一気に書き上げます。

     緒言(まえがき)で福沢は、「政府の専制(とが)むべからず」といえども、これを「放頓(ほうとん)(放置)」すれば際限がなく、これを防ぐの術は「抵抗の精神」あるのみと強調します。

     そのうえで、西郷の武力行使には賛同できないものの、「その精神に(いたり)ては、間然(かんぜん)すべきものなし(少しも非難すべき点がない)」と、政府におもねらない抵抗の精神をたたえます。さらに返す刀で、維新の際は「勲功第一等」と持ち上げておきながら、一転して西郷を「古今無類の賊臣」と罵倒(ばとう)している新聞の豹変(ひょうへん)ぶりを痛烈に批判しました。 

     福沢は、西郷の決起は「立国の大本たる天下の道徳品行を害したるものにあらず」と重ねて弁護し、政府は、「天下の人物」である西郷を死地に(おとしい)れただけでなく、「これを殺したる者というべし」と、激越な調子で締めくくりました。

     この論説は、当時の言論弾圧を恐れてか公表がはばかられ、1901年になって「時事新報」に連載されました。同年5月、痩せ我慢を忘れて新政府に出仕したとして、勝海舟と榎本武揚(たけあき)の出処進退を批判した『痩我慢(やせがまん)の説』との合本(がっぽん)で刊行されます。

     西郷と福沢は面識こそありませんでした。だが、西郷は福沢が著した『文明論之概略(ぶんめいろんのがいりゃく)』(1875年刊)を読み、周辺に勧めていました。西郷は、ドメスティック(国内専門)な守旧派とみられがちですが、実際は、国際情勢や西欧社会にも通じた人だったようです。

    南洲翁遺訓

     西郷は1877年2月に挙兵した直後、陸軍大将を解任され、正三位(しょうさんみ)の官位を剥奪(はくだつ)されました。西郷は、89年の大日本帝国憲法(明治憲法)発布の際の大赦で「賊」の名を除かれ、政府は再び、正三位を追贈します。

     93年からは、彫刻家・高村光雲(たかむらこううん)(1852~1934年)を主任として、上野公園で銅像の製作が始まり、98年に除幕式が行われました。あの犬を連れた、親しみやすく庶民的な西郷像です。

    • 山形県酒田市の南洲神社にある「徳の交わり」像。右が西郷隆盛、左が菅実秀)
      山形県酒田市の南洲神社にある「徳の交わり」像。右が西郷隆盛、左が菅実秀)

     この西郷の名誉回復を喜んだ旧庄内藩主・酒井忠篤(ただずみ)らによって刊行されたのが『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』(南洲は西郷の号)でした。

     庄内藩(山形県北西部)は、江戸薩摩藩邸焼き打ち事件(68年)のために、戊辰戦争で「朝敵」とされます。同藩は、奥羽越列藩同盟の主軸として政府軍に強く抵抗しますが、結果は敗北で終わりました。

     ところが、進駐した薩摩軍は、庄内藩の予想に反して寛大な処置をとります。西郷の指示によるものであり、これに感激した藩主の忠篤をはじめ、側用人(そばようにん)だった菅実秀(すげさねひで)(1830~1903年)らが、多数の藩士を従えて鹿児島を訪問し、西郷との交流を深めます。その際、西郷が語った言葉を書き残し、それをもとに菅らが『南洲翁遺訓』を編みました。

    「敬天愛人」

    • 西郷隆盛筆「敬天愛人」(国立国会図書館ウェブサイトから)
      西郷隆盛筆「敬天愛人」(国立国会図書館ウェブサイトから)

     この『遺訓』には、西郷の人間観や文明観、国家観などが詰め込まれています。

     中でもよく知られているのが「敬天愛人(けいてんあいじん)」の思想です。『南洲翁遺訓』(猪飼隆明訳)から引きますと、

     <道は天地自然の道なるゆゑ(え)、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己(こっき)を以て終始せよ>

     (訳文=人が踏み行うべき道は、天から与えられた道理であって、上に天があり、下に地があるように、当たり前の道理であるから、学問の道は天を敬い人を愛することを目的として、身を修め、つねに己に()つことに努めなければならぬ)

     <人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を(とが)めず、我が誠の足らざるを尋ぬ()し>

     (訳文=狭量な人間世界にこだわるのではなく、広大無辺(こうだいむへん)の天を相手にしなさい。天の示す道を実現すべく全精力・精神を傾け、人を咎めたりせず、自分に真の心が不足していることを認識すべきなのだ)

    • 内村鑑三(国立国会図書館ウェブサイトから)
      内村鑑三(国立国会図書館ウェブサイトから)

     この「敬天愛人」の言葉に感応したのが、キリスト教徒の内村鑑三(うちむらかんぞう)(1861~1930年)でした。

     高崎藩(群馬)の武士の家に生まれた内村は、西南戦争が起きた77年、札幌農学校に入学し、洗礼を受けました。その内村が日本人の持つ長所を世界に知らせようと、94年、英語で著したのが『日本及び日本人』(のち『代表的日本人』に改題)でした。

     ちなみに、札幌農学校の同級生には、のちに英文で『武士道』を書く新渡戸稲造(にとべいなぞう)(1862~1933年)がおり、2人は長く親交を深めます。

     内村は『代表的日本人』で、西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)二宮尊徳(にのみやそんとく)、中江藤樹(とうじゅ)日蓮上人(にちれんしょうにん)の5人を挙げています。

     この中で内村は、西郷隆盛について、「『敬天愛人』の言葉が西郷の人生観をよく要約しています。それはまさに知の最高極地であり、反対の無知は自己愛であります」「『正義のひろく行われること』が西郷の文明の定義でした。西郷にとり『正義』ほど天下に大事なものはありません」――と書いています。

     内村にとって西郷は「もっとも偉大な人物」であり、「最後のサムライ」でした。

    西郷星と西郷伝説

    • 当時の錦絵「西郷星出現」(鹿児島県立図書館蔵)
      当時の錦絵「西郷星出現」(鹿児島県立図書館蔵)

     西南戦争で薩軍の敗色が濃くなった1877年夏、火星が地球に大接近、人々は赤く輝いてみえる火星の中に軍服を着た西郷の姿を認め、「西郷星」と(うわさ)し合いました。

     そのあと、西郷は西南戦争で死なずに生きている、という生存伝説も流れ、91年にロシア皇太子ニコライ来日の際には、西郷が亡命先のロシアから一緒に帰国するという噂も立ちました。

     西郷はなぜ、民衆にも人気があったのでしょうか。

     徳富蘇峰は、「西郷を冬日愛すべしとせば、大久保は夏日(おそ)るべし」と形容しましたが、峻烈(しゅんれつ)な性格の大久保に対して、人間的な温かみを感じさせる西郷の人柄が、人気の源泉の一つでしょう。  

     また、王政復古や廃藩置県を断行した明治維新の英雄でありながら、最後は反逆者として悲運の人生をたどったこと、加えて、江戸城無血開城や朝敵・庄内藩への平和進駐など、心打つエピソードを残していることも、西郷人気を支えています。

     復権後の西郷は、征韓論を唱えた人として、国権主義やアジア主義の先覚者として(たた)えられるようになり、戦後は逆に侵略思想の持ち主として否定的にみられることもありました。西郷に対する評価は今日もなお、揺れ動いているようです。

    【主な参考・引用文献】

    ▽徳富蘇峰『近世日本国民史 明治三傑』(講談社学術文庫)▽毛利敏彦『大久保利通』(中公新書)▽池辺三山『明治維新三大政治家―大久保・岩倉・伊藤論』(中公文庫)▽島田昌和『渋沢栄一』(岩波新書)▽圓城寺清『大隈伯昔日譚』(立憲改進党党報局)▽江森泰吉編『大隈伯百話』(実業之日本社)▽福沢諭吉『明治十年丁丑公論・痩我慢の説』(講談社学術文庫)▽先崎彰容『未完の西郷隆盛』(新潮選書)▽同『100分de名著 西郷隆盛 南洲翁遺訓』(NHK出版)▽西郷隆盛『新版 南洲翁遺訓』(猪飼隆明訳・解説、角川ソフィア文庫)▽内村鑑三『代表的日本人』(鈴木範久訳、岩波文庫)▽若松英輔『内村鑑三―悲しみの使徒』(岩波新書)▽家近良樹『その後の慶喜』(ちくま文庫)▽小川原正道『西南戦争』(中公新書)▽勝田政治『<政事家>大久保利通』(講談社選書メチエ)

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    2018年06月27日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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