<速報> 常田富士男さん死去…「まんが日本昔ばなし」語り手
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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第12回~維新とは何だったのか(上)

    開国決断のとき

     明治維新というと、幕府が倒壊し新政府が成立した1868(明治元)年をイメージしますが、歴史家の間では、53年の黒船来航に始まり、幕末~明治20年代までの激動期をさすことが多いようです。

    • 国書奉呈のため上陸し、久里浜応接館に向かうペリー提督(中央)=米国議会図書館蔵
      国書奉呈のため上陸し、久里浜応接館に向かうペリー提督(中央)=米国議会図書館蔵

     この<あたらしい「世界と日本」史>では、これまでペリー来航から77年の西南戦争に至る24年間を追いかけてきました。

     日本と米欧との交流史を振り返りますと、西洋人の本格的な来日は1549年、ポルトガル系のイエスズ会宣教師、フランシスコ・ザビエル一行の鹿児島上陸に始まります。15世紀後半から16世紀にかけ、ヨーロッパ諸国が海外に積極的に進出した「大航海(だいこうかい)時代」のことです。

     その後、日本は17世紀前半にキリシタン禁教令を出し、「鎖国」政策をとります。それでも、長崎(対オランダ・清国)、対馬(対朝鮮)、薩摩(対琉球)、松前(対アイヌ)と、対外的に四つの窓口が開かれていました。

     ところが、18世紀末になると、日本周辺に新たに外国船が出没し始めます。まず、ロシア船が根室と長崎にやって来て通商を求め、1808年にはイギリス軍艦が長崎に侵入する事件が起きました。このため、幕府は25年、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出しますが、37年、日本人漂流民を送り届けにきたアメリカ商船を撃退するという失態を演じます。

     46年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航して通商を求めます。幕府は拒絶しますが、アメリカは改めて、同艦隊司令長官ペリーを派遣して幕府との本格交渉に乗り出します。ペリーの最大の目的は、北太平洋横断航路の開設に向け、日本に燃料などの補給港を設けることでした。

    • 阿部正弘(国立国会図書館ウェブサイトから)
      阿部正弘(国立国会図書館ウェブサイトから)

     アヘン戦争(1840~42年)での清国敗北を知っていた幕府の老中首座・阿部正弘(まさひろ)(在職45~55年)は、アメリカの「砲艦外交」を前に54年、限定的な「開国」(日米和親条約)へとカジを切ります。

     アジアでは、イギリスが征服したインドで大反乱(1857~59年)が起き、英仏連合軍が清国を相手に第2次アヘン戦争(56~60年)を始めるなど、列強によるアジア支配の風波が高まります。

     後継老中で開明派の堀田正睦(まさよし)は、阿部の政策転換を引き継いで国交・通商開始の方針を固め、58年、大老の井伊(いい)直弼(なおすけ)勅許(ちょっきょ)(天皇の許可)を得ないまま、日米修好通商条約の締結(58年)を断行します。

     幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を結びます。当時、欧米各国は日本を「半未開国」とみなして対等な扱いをせず、条約は不平等なものになりました。こうして条約改正が明治新政府の最重要課題として浮上し、とくに領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の回復が急務となるのです。

    富国強兵の始まり

     阿部老中は、開国問題をめぐり諸大名や幕臣に意見を求めました。併せて、これまで実質的な政治決定の場から外してきた朝廷にも報告をあげます。

     この異例の措置は、徳川(とくがわ)斉昭(なりあき)(水戸)や松平(まつだいら)慶永(よしなが)(越前)、島津(しまづ)斉彬(なりあきら)(薩摩)らの幕政参加の道を開き、彼らは政治的発言力を強めます。

     その結果、幕府の政治的権威は損なわれ、逆に朝廷の立場が向上。幕末期、武士や豪農らの間に浸透していた国学の尊王思想などが、この流れを後押ししました。

     他方、外国との通商によって富国強兵を図ろうとする論議が、幕府内部で始まるのもこの時期です。開国によって産業・交易を盛んにして「富国」をつくり、その利益で「強兵」を養おうという構想でした。

    • フランス皇帝から贈られた軍服姿の将軍・徳川慶喜(国立国会図書館ウェブサイトから)
      フランス皇帝から贈られた軍服姿の将軍・徳川慶喜(国立国会図書館ウェブサイトから)

     すでに薩摩藩で反射炉(金属精錬用の炉)や造船所、ガラス製造所が建設されるなど、多くの藩が洋式軍事工業を導入。兵器の製造や輸入にあたり、軍備を整えていました。

     幕府も66年、徳川慶喜(よしのぶ)が「最後の将軍」の座に就くと、全面的な開国体制へ移行します。フランスから陸軍教官を招いて常備軍を創設し、フランスの資本・技術援助の下、横須賀製鉄所を開設。幕政改革も進めて幕府権力の強化をはかりました。

     日本政治外交史家の三谷太一郎氏の著書『日本の近代とは何であったか』によれば、日本の近代は「同時代のフランスのナポレオン三世をモデルとする徳川慶喜政権の近代化路線に発」しており、「文明開化」や「富国強兵」のスローガンは、「当時この路線を方向付けるものとして作られ、福沢諭吉らによって唱えられ」たものでした。

     慶喜は政争に敗れて政権交代するわけですが、結局、「幕末の近代化路線は、ほとんどそのまま明治政府によって継承」されたということです。

     日本は、このスローガンに基づいて、半世紀の間、政治的にも経済的にも軍事的にも近代化を遂げ、20世紀初めには「一等国」入りします。

     そして大正・昭和戦前期も、この路線は、近代日本を貫くひとつの棒のようなものとして在り続け、これが挫折するのは、1945年のアジア・太平洋を舞台とする「昭和戦争」の敗北によってでした。

    尊王攘夷の結末

     幕末期の日本では、さまざまなスローガンのもと、政治運動が展開されました。その一つが「尊王攘夷(そんのうじょうい)」であり、もう一つが「公武(こうぶ)(公家と武家)合体」の運動でした。

     尊王攘夷運動に火をつけたのは、井伊直弼による無勅許の条約調印でした。これは尊王にもとる行為であり、不平等な条約は破棄されるべきだ、というのがその理由でした。

     井伊が暗殺されると、幕府と朝廷の融和を図って新しい政治の枠組みをつくろうとする公武合体の動きが出て、薩摩、長州両藩も朝廷との公武合体を試みます。

     薩摩の島津久光が勅使を伴い江戸で幕府の人事改革を実現すると、長州は、将軍に上洛(じょうらく)(京都行き)させて攘夷断行を迫り、63年には下関海峡を通過中のアメリカ、フランス、オランダ艦に砲撃を加えます。

    • 砲撃の後、長州藩の下関砲台を占拠したイギリス軍(長崎大学附属図書館所蔵)
      砲撃の後、長州藩の下関砲台を占拠したイギリス軍(長崎大学附属図書館所蔵)

     しかし、英仏米蘭4か国の連合艦隊との交戦で惨敗し、薩摩も、生麦事件(イギリス人殺傷事件)の報復に出たイギリス軍艦の砲火を浴びます。列強の軍事力に圧倒された両藩は、ともに「攘夷」を捨てます。

     薩摩藩と会津藩の公武合体派は63年、急進尊攘派の長州藩勢力と公家らを京都から追い出します。長州は逆襲に転じ京都に出兵しますが、会津、薩摩など諸藩兵にはねつけられました。しかし66年、幕府による第2次長州征討を前に、今度は薩摩と長州が同盟関係を結びます。「昨日の敵は今日の友」です。

     幕末政局が緊迫する中、慶喜は67年、大胆にも政権を朝廷に返上(大政奉還)し、武力倒幕をめざす薩長が用意した「討幕の密勅」を無力化させます。

     慶喜も薩長も、「王政復古」と「公議政体」を実現する点では大きな違いはありませんでした。だが、これを誰の手でどのように実行するかで対立しました。

     68年、幕府、西南雄藩、朝廷による三つ(どもえ)の権力闘争は、「慶喜排除」で決着し、260年以上にわたる江戸幕府は倒壊、雄藩と朝廷との公武合体的な新政権が生まれました。

     尊王攘夷の「攘夷」は、開国後も明治初期まで気分として色濃く残ります。一方、「尊王」の方は「王政復古」で実を結ぶことになりました。

     政治学者の北岡伸一氏は、著書『日本政治史』で、尊王とは「統一政権」、攘夷とは「対外的独立」とそれぞれ読み替えるべきで、尊王攘夷とはナショナリズムの二つの側面を言い表したスローガンだったと書いています。

     明治維新はどのような革命だったのかをめぐっては、かつてマルクス主義の歴史観にもとづく論争がありました。北岡氏は「ある人は絶対主義の確立であるといい、ある人はブルジョワ革命との親近性を指摘している。しかし尊王攘夷の言葉が示すとおり、それはナショナリズムの革命であったのである」としています。

     1865年、日本の藩は283を数えていました。それが結果として統一政権として収束し、日本は主権独立国家体制を築き上げることになるのです。

    テロとクーデターと内戦

     維新では、政治目的のために非合法に人を殺害するテロリズムや、内戦によって多くの人命が失われました。

     1860年、井伊直弼は水戸・薩摩の脱藩浪士に殺され、62年には公武合体政策をとった老中・安藤信正(のぶまさ)が水戸脱藩浪士らに襲われ負傷します。

     67年には坂本龍馬(りょうま)、中岡慎太郎、明治に入って69年には政府参与の横井小楠(しょうなん)、兵部大輔(たいふ)の大村益次郎、71年は参議の広沢真臣(さねおみ)、78年には内務卿・大久保利通が、それぞれ襲撃を受けて死亡しました。暗殺未遂では、イギリス公使のパークスや岩倉具視(ともみ)の事件もありました。

     武力を背景とする奇襲で政権を奪うクーデターも起きています。長州藩を京都から追放した63(文久3)年の政変や、67(慶応3)年の王政復古の大号令のほか、明治新政府による71年の廃藩置県も、「御親兵(ごしんぺい)」の軍事力を背景としたクーデターでした。

     テロやクーデターは、明治、大正期のみならず、五・一五事件や二・二六事件など昭和時代まで連綿と繰り返されることになります。

     内戦も勃発しました。

     新政府発足後の68年、倒幕派は幕府側を挑発し、新政府軍と旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰(ぼしん)戦争に突入します。この時の政敵「排除」の論理は、73(明治6)年の征韓論をめぐる大政変でも貫徹されました。

    • 西南戦争を描いた錦絵「鹿児島城激戦図」。右端の馬上の人物が西郷隆盛(国立国会図書館ウェブサイトから)
      西南戦争を描いた錦絵「鹿児島城激戦図」。右端の馬上の人物が西郷隆盛(国立国会図書館ウェブサイトから)

     明治六年政変のあと、西郷隆盛らは一斉に下野し、その後の江藤新平による佐賀の乱、前原(まえばら)一誠(いっせい)の萩の乱、そして日本最大で最後の内戦である西南戦争につながります。

     ただ、この革命の犠牲者を他国と比べると、その数は少なく、暴力は比較的抑制されていたとの評価もあります。例えば、「維新時の日本人口は、大革命時のフランス人口の約1.2倍であったが、犠牲者は約3万人、フランスの少なくとも60万人以上という数字と比べて、桁違いの低レベルであった」(三谷博『明治維新を考える』)というものです。

    「乱世的革命」の底流

     もちろん、幕府の瓦解は、政治スローガンや権力闘争、テロ・クーデターだけでは説明できません。とくに人口約3100万人といわれている当時の、日本経済・社会の変動を見ておかなければなりません。

     明治中期の著名な歴史家に竹越(たけごし)与三郎(よさぶろう)三叉(さんさ))(1865~1950年)がいます。彼は著書『新日本史』で、維新について、イギリスに勃発した「復古的の革命」とも、フランスやアメリカのような「理想的の革命」とも違う、「現在の社会の不満や痛苦に()えずして発した、漠々茫々(ばくばくぼうぼう)の(誰もが先のよく見えない)乱世的の革命」と性格づけていました。

     竹越によれば、8代将軍・吉宗の享保年間(1716年~)以降、士民の奢侈(しゃし)(ぜいたく)を禁ずる倹約令が守られなくなって「幕朝衰亡の機微」が見えます。

     特に革命の契機になった「社会的結合力の弛緩(しかん)」は、一藩の領主が江戸、大坂の商人から借金するなど、支配層の武士と被治者の町人・百姓との「優劣」関係の逆転現象に表れたといいます。

     経済面では、1859年の横浜・函館・長崎の開港以降、日本国内は猛烈な物価高に襲われます。幕府や各藩は、砲台の建設や軍艦・商船の購入など、海防の負担増もあって一層の財政難に陥っていました。

     このため、諸藩は藩札を乱発し、幕府は金貨を改鋳(かいちゅう)(改悪)します。さらに外国と日本の金銀交換比率の違いにつけこまれ、大量の金貨を海外に流出させてしまいました。これらがインフレーションの引き金になります。

     インフレによる実質賃金の低下は職人たちの生活を苦しめ、貿易の進展は農村で発達していた綿織物業などに打撃を与え、コメの不作は百姓の暮らしを圧迫しました。このため、農民一揆や打ち壊しなどが各地で発生し、治安が悪化します。 

     こうして生じた江戸時代の社会、経済情勢の流動化・不安定化、幕府の失政による人心の離反、庄屋・名主層の反権力姿勢などが、封建制度を動揺させ、竹越のいう「乱世的革命」につながったとみられます。

    【主な参考・引用文献】

    ▽三谷博『維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ』(NHK出版)▽同『明治維新を考える』(岩波現代文庫)▽三谷太一郎『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(岩波新書)▽坂本多加雄『明治国家の建設』(中公文庫)▽北岡伸一『日本政治史-外交と権力』(有斐閣)▽中村隆英『明治大正史(上)』(東京大学出版会)▽田中彰『明治維新 日本の歴史7』(岩波ジュニア新書)▽同『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)▽竹越与三郎『新日本史(上)(下)』(西田毅校注、岩波文庫)▽家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)▽大日方純夫『「主権国家」成立の内と外』(同)▽室伏哲郎『日本のテロリスト』(弘文堂)▽坂野潤治・大野健一『明治維新1858―1881』(講談社現代新書)▽半藤一利・出口治明『明治維新とは何だったのか』(祥伝社)▽高校教科書『詳説日本史B』『詳説世界史B』(山川出版社)▽『月刊中央公論 特集―誤解だらけの明治維新』(2018年4月号)▽『週刊東洋経済 特集―日本史再入門』(2018年4月28日・5月5日合併号)

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    2018年07月11日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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