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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第13回~維新とは何だったのか(下)

    世襲身分の解体

     維新政府は、明治初期のわずか10年の間に、版籍奉還、廃藩置県、地租改正を断行し、国内の政治的統一と財政の基礎固めを図りました。また、学制公布と徴兵令で「国民皆学」と「国民皆兵」を実現します。

     さらに秩禄処分という、士族の特権(俸禄(ほうろく))を奪う施策を遂行しました。「百姓町人」を主体とする軍隊を創設する徴兵制も、士族の職分を奪うものでした。

     従来、士農工商と称された世襲の身分制度は、ここに解体され、華族・士族・平民という区分に代わり、職業選択も自由になりました。

    • 文明論之概略(国立国会図書館ウェブサイトから)
      文明論之概略(国立国会図書館ウェブサイトから)

     「門閥制度は親の(かたき)でござる」(『福翁自伝』)と言った福沢諭吉は、著書『文明論之概略(ぶんめいろんのがいりゃく)』(1875年初刊)で、維新革命は、才能や知恵があっても門閥に妨害されてきた人々の、「門閥を(いと)ふの心」にその発端があったと書いています。

     維新は人々を門閥制度のくびきから解放し、原則として実力本位の時代を招来したのです。

     福沢のベストセラー『学問のすゝめ』は、学問をすれば誰もが賢人になれると、「一身の独立」を説きました。それは、すべての子供を小学校に入学させる国民皆学体制を促進することになります。

     ただ、明治期に教育が広く普及した背景には、江戸時代後期に開設された多様な教育機関の存在がありました。

     例えば、庶民の子弟に読み・書き・そろばんを教えた寺子屋は、幕末の1854~67年の間、毎年300校以上が開校されて農山漁村にまで浸透し、その数は3万~4万校にも達したと推測されています。(『国史大辞典』)

     ヒトやモノ、組織や思想も、江戸時代に土台が築かれ、明治政府に引き継がれたものが、数多くあります。歴史は「断絶」のみならず、「継続」の側面からも見ていく必要があるといえます。

    「西洋」を読み込む

     福沢は『文明論之概略』で、ペリー来航のあと、世間の人々は「外国人に接して()の言を聞き、あるいは洋書を読み、あるいは訳書を見て」視野を広め、人力をもって政府も打倒できることに気付いたと書いています。

     その意味で、福沢をはじめ、西周(にしあまね)、中村正直(まさなお)、森有礼(ありのり)ら「明六社(めいろくしゃ)」に結集した啓蒙思想家は、洋行体験と、西洋の国家・社会・経済制度に関する知見を人々に伝える先駆的役割を果たしました。

     「西洋」を知るには外国語を学ばなければなりません。このため、森有礼のように世界で支配的な言語である英語を国語とするよう唱える人も出ました。

     しかし、政治的にも文化的にも悪影響があるとして退けられ、そこで求められたのが「翻訳書」です。日本は維新前後の数十年間、膨大な量の西洋文献を日本語に翻訳しました。それはなぜ、可能だったのでしょうか。

     評論家・加藤周一氏の分析(「明治初期の翻訳―何故(なぜ)・何を・如何(いか)に訳したか―」)によれば、一つには日本語の語彙(ごい)の中に豊富な漢語が含まれていたこと、第2は蘭学者によるオランダ語文献の翻訳経験があったこと、第3は日本の社会と文化に高い「知的感覚的洗練」が認められたからでした。

     外国文献の翻訳ブームも起こり、日本人のだれもが西洋の知識や技術に触れ、それを取り入れることができるようになりました。

    「地球は小さくなった」

     71年12月、新政府は岩倉具視を全権大使とする米欧使節団を派遣しました。政府指導層の半分近くが、2年近くも米欧12か国を訪問するという「壮挙」は、いかに彼らが米欧の政治・法律・経済、軍事・教育の仕組み、学術・思想などを渇望していたかの表れれです。

    • ジュール・ヴェルヌ
      ジュール・ヴェルヌ

     使節団は72年末、米英に次ぐ3番目の訪問国、仏のパリに入りました。その年、SF作家のジュール・ヴェルヌ(1828~1905年)の『八十日間世界一周』が、フランスで出版されました(日本語翻訳版は78年6月発行)。

     この小説は、あるイギリス紳士が80日間で世界を1周する「賭け」をします。彼は、ロンドン~スエズ運河~ボンベイ~カルカッタ~香港~横浜~サンフランシスコ~ニューヨーク~ロンドン間を、客船と鉄道を使って見事、1周してみせますが、時間を5分超過してしまいます。しかし、時差による計算違いと分かって賭けに勝利する、というストーリーでした。

     その中の登場人物のひとりがこう語っています。

     「地球は小さくなった。いまや、100年前の10倍以上の速さで、地球を1周することができるのです」

    • 当時のアメリカの外航蒸気船(1850年頃、米国議会図書館蔵)
      当時のアメリカの外航蒸気船(1850年頃、米国議会図書館蔵)

     実際、蒸気船と鉄道と電信ケーブル網の発達は、人間の移動や情報伝達の時間を著しく短縮していました。

     とくに電信は、おおむね1860~70年の間に導入され、最小で2日間、最大でも4日間あれば、世界のどこにでも情報が到達するようになりました(玉木俊明『ヨーロッパ繁栄の19世紀史』)。ここに新たなグローバル時代が現出したわけです。

     岩倉使節団の地球1周も、『八十日間世界一周』のルートと重なるところがあり、海洋を行き交う定期航路や大陸を横断する鉄道があってこその旅でした。使節団は、行く先々でグローバル化の波と、欧米と日本との軍事・科学技術の落差を実感したはずです。

    西洋化と伝統文化

    • 日本初の鉄道開業時に使用された1号機関車(明治30~40年代撮影、鉄道博物館所蔵)
      日本初の鉄道開業時に使用された1号機関車(明治30~40年代撮影、鉄道博物館所蔵)

     1870年1月、東京―横浜間の電信が開通すると、73年2月には長崎に達し、長崎・上海間の海底電線を通じて欧米と接続されます。一方、72年10月、新橋―横浜間で日本最初の鉄道が開業しました。

     翌73年、米欧回覧から帰国した大久保利通や木戸孝允らは、米欧の機械文明をより積極的に導入しようと考えていました。しかし、留守を預かっていた西郷隆盛は、無制限な西洋化に疑問を呈していました

     例えば、『南洲翁遺訓』(猪飼隆明訳)の第10条で、こんな趣旨の話をしています。

     「電信線をかけ、鉄道を敷設し、蒸気機関車をつくる。こうして人の注目を集めても、どうして電信・鉄道が必要なのかを考えもしないで、やたらと外国の巨大な繁栄を(うらや)む。また、日本にとっていいのか悪いのかを考えもせずに、家屋の作り方からおもちゃに至るまで、一つひとつ外国に見習って、贅沢(ぜいたく)の風潮を助長する。こうして財政を浪費するなら、国力は疲弊し、人心は軽佻浮薄(けいちょうふはく)になり、結局日本は、にっち(二進)もさっち(三進)も行かなくなってしまうだろう」

     それだけではありません。外交のあるべき姿も語っていました。

     「国のために、正しく道理のあることをとことん実践して、あとは国とともに倒れてもよいと思うほどの精神がなかったら、外国との交際はうまく運ばない。その国が強大であることに恐れをなし縮こまってしまって、ことが起こらないようにと摩擦を避けて、その国のいいなりになるなら、軽蔑(けいべつ)や侮りを受け、好ましい交際はかえって破談してしまい、(しま)いにはその国の掣肘(せいちゅう)(干渉、横やり)を受けるようになってしまうものだ」(『遺訓』第17条)

     この西郷の考え方と大久保・木戸ら帰国組の考えとは、あきらかに齟齬(そご)(くいちがい)がありました。

     歴史学者・福地惇氏は、著書『明治新政権の権力構造』で、「限定西洋化主義(伝統文化評価)」と「総体西洋化主義(伝統文化軽視)」の座標軸(縦軸)を設定しています。

     「総体西洋化主義」は、富国強兵に向けた、西洋文明の積極的な受容にあたって、伝統文化を捨て去ることもためらわないのに対して、「限定西洋化主義」は、日本民族の伝統文化を損なわないよう、西洋化は慎重にし、軍事・兵器など必要な部分に限るという考え方です。大久保は総体西洋化主義、西郷は限定西洋化主義に位置づけられます。

     もうひとつは対外関係です。こちらの座標軸(横軸)は、「現実主義(協調主義的)」と「理念主義(対抗主義的)」です。強大な欧米列強に対して、うまく順応していくリアリズム外交か、あるいは正義の立場から抵抗すべきは抵抗する外交か、の違いです。大久保は現実主義であり、西郷は理念主義です。

     これらを総合して福地氏は、「西郷は対抗的民族主義者、限定西洋化論者にして強兵(軍事重視)主義者であり、大久保は、協調的民族主義者、総体西洋化論者にして富国(経済重視)主義者だった」と結論づけています。

     この西郷と大久保の対立は、「明治前期の政治対立の在り方を象徴」しており、西南戦争後、西郷タイプは政権内部では衰えますが、在野政治家や思想家の間では影響力を長く持ち続けると指摘しています。

    主権国家とアジア

     開国によって、日本は否応(いやおう)なく、19世紀ヨーロッパ主導の国際秩序と、イギリスに有利な自由貿易体制に組み込まれました。それは「万国公法」(国際法)を受け入れることを意味しました。

     これに伴い、「主権国家」(独立国)として日本は、米欧各国とは不平等条約の改正を、東アジアの諸国とは条約による対等な国家関係の構築をそれぞれ迫られました。

     そのためには国境を画定し、一つの領土、国民、主権を備えた国にしなければなりません。政府は、南下するロシアとの間で樺太・千島交換条約を結び、西進するアメリカが着目した小笠原諸島については日本領有を宣言しました。

     ところが、欧米とは異なる、中国中心の国際秩序(華夷(かい)秩序)の下に置かれていた朝鮮や琉球をめぐっては、国交や帰属交渉が難航します。

     隣国の朝鮮は清国を宗主国(そうしゅこく)としていました。また、琉球(沖縄)は、薩摩藩の支配を受けつつ清国に朝貢を続ける、日清両属の立場にありました。

     日本政府は清国とは対等の条約を結びますが、それを拒む朝鮮に対しては、73年、西郷を特使として派遣し開国を迫ることにします。しかし、大久保らが「内治優先」を掲げてこれを中止させました。

    • 台湾での戦闘を描いた錦絵「台湾嶌石門進撃之図」(国立国会図書館ウェブサイトから)
      台湾での戦闘を描いた錦絵「台湾嶌石門進撃之図」(国立国会図書館ウェブサイトから)

     ところが、75年、日本政府は、朝鮮に軍艦を派遣して挑発行動をとり、その反撃を口実に「砲艦外交」によって不平等条約を押しつけました。この条約では朝鮮を中国との朝貢体制から切り離そうと、「朝鮮国は自主の邦」と規定しました。

     征韓論を退けたばかりの大久保らは、万国公法を援用して74年、台湾出兵を決めます。出兵は琉球を日本専属の主権下に置く狙いをもっていました。

     ところが、日本の出兵に強く反発した清国と「開戦の危機」に直面します。大久保利通が北京で薄氷を踏む交渉の末、イギリスの調停もあって妥結に持ち込み、事実上の賠償金を獲得しました。

     ただ、台湾出兵では派遣軍の独走を政府が追認したことや、開戦か避戦かをめぐって揺らぐ政府の対応ぶりは、のちの昭和戦争期の満州事変や日米交渉とダブってみえます。

     日本の一連の外征策には、国内的には、維新の「革命軍」のエネルギーを発散させる狙いがありました。一方、清国にとっては華夷秩序に対する日本の挑戦と映っていました。

     日本のアジア外交は、初めからそんな危うさをはらんでスタートしたのです。

    公議輿論と「天皇親政」

    • 皇居紫宸殿で「五箇条の御誓文」を読み上げる三条実美(中央左、国立国会図書館ウェブサイトから)
      皇居紫宸殿で「五箇条の御誓文」を読み上げる三条実美(中央左、国立国会図書館ウェブサイトから)

     徳川慶喜の「大政奉還」で「天皇親政」に道が開かれたあと、「王政復古の大号令」によって明治新政府が成立しました。

     一方、明治天皇が公布した「五箇条の御誓文」は、「広く会議を興し万機公論に決すべし」と、公議輿論(よろん)の政治を唱えました。この天皇親政と公議政治は「維新政治の二大理念」(笠原英彦『天皇親政』)といわれます。本来なら、矛盾してみえる両者だけに、明治以降、天皇の政治的位置づけをめぐって論議を生むことになります。

     公議政体論が登場したきっかけはペリーの黒船でした。前回の(上)でも述べたように幕府は諸大名に意見を求め、朝廷にも報告しました。維新後、政府は、新政の柱に公議輿論―政治参加の拡大を掲げ、議事機関の創設を検討しました。

     例えば、1869年3月に開設された「公議所」では、諸藩の代表による会議が何度も開かれました。同年7月、公議所は集議院と改称され、71年7月、太政官三院(正院・右院・左院)制の実施に伴って、立法諮問機関である左院に引き継がれます。左院では憲法制定や国会開設構想も論じられました。

    • 「五箇条の御誓文」(国立公文書館蔵)
      「五箇条の御誓文」(国立公文書館蔵)

     これに対し、74年、板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を左院に提出します。自由民権運動の始まりです。

     もっとも、政府側は、反政府運動の拡大を懸念しつつも、議会開設は避けて通れないと考えていました。75年には「漸次立憲政体樹立の(みことのり)」が出され、元老院と大審院の創設、地方官会議の開催が決まります。とくに、元老院は、新法制定や法改正を審議する機関と定められ、76年には憲法草案を起草します。

     他方、「天皇親政」は、藩閥・有司専制政治の前に次第に形骸化してしまいます。このため、天皇親政の実質化を図る、巻き返しの運動が起こります。

     議会制導入と憲法制定の動きは、明治10年代に活発化します。「国会と憲法」がきちんとセットされたことをもって、明治維新は完結するともいえます。

     次回からは、<国会開設と憲法制定>を新タイトルに、西南戦争後の世界と日本を追いかけていきます。

    【主な参考・引用文献】

    ▽『福沢諭吉「学問のすすめ」』(佐藤きむ訳、角川ソフィア文庫)▽鹿野政直『近代日本思想案内』(岩波文庫)▽三谷博『維新史再考』(NHK出版)▽ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』(鈴木啓二訳、岩波文庫)▽永江朗監修『日本の時代をつくった本』(WAVE出版)▽福沢諭吉『文明論之概略』(岩波文庫)▽丸山真男『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)▽加藤周一「明治初期の翻訳」(日本近代思想大系15『翻訳の思想』=岩波書店=解説)▽玉木俊明『ヨーロッパ繁栄の19世紀史』(ちくま新書)▽西郷隆盛『新版 南洲翁遺訓』(猪飼隆明訳・解説、角川ソフィア文庫)▽福地惇『明治新政権の権力構造』(吉川弘文館)▽中村隆英『明治大正史(上)』(東京大学出版会)▽大日方純夫『「主権国家」成立の内と外』(吉川弘文館)▽北岡伸一『日本政治史』(有斐閣)▽笠原英彦『天皇親政』(中公新書)▽坂野潤治・大野健一『明治維新1858―1881』(講談社現代新書)▽久保田哲『帝国議会』(中公新書)▽高校教科書『日本史B』(山川出版社)▽安丸良夫・深谷克己校注『日本近代思想大系21 民衆運動』(岩波書店)▽坂本多加雄『明治国家の建設』(中公文庫)

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    2018年07月25日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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