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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <国会開設と憲法制定>第2回~明治天皇、表舞台に

    「侍補」の設置

     西南戦争最中の1877(明治10)年8月、明治天皇の傍らに政治教育係として「侍補(じほ)」が置かれました。儒学者・元田(もとだ)永孚(ながざね)(1818~91年)が主導して岩倉具視や大久保利通に働きかけた結果でした。

    • 明治天皇(以下、写真はすべて国立国会図書館ウェブサイトから)
      明治天皇(以下、写真はすべて国立国会図書館ウェブサイトから)

     一等侍補には徳大寺実則(さねつね)(宮内卿兼務)、吉井友実(ともざね)土方(ひじかた)久元(ひさもと)が就き、二等侍補には元田と高崎正風(まさかぜ)らが就任しました。

     明治維新が、「公議輿論(こうぎよろん)」と「天皇親政(てんのうしんせい)」を標榜(ひょうぼう)して断行されたことは、これまで何度か述べてきました。

     天皇は75年、「漸次(ぜんじ)立憲政体の(みことのり)」を発し、「公議輿論」の機関としての議会の開設に一定の道筋をつけました。その一方で、天皇親政の方は、体制整備こそ図られましたが、親政とは名ばかり、実質を伴っていないという批判がありました。

     維新から10年を経て、侍補たちは、依然として不安定な政局のもと、「天皇輔導(ほどう)(たすけみちびくこと)」体制を強化し、天皇親政の実を上げようと活動を強めることになります。

    「幼沖の天子」

     明治天皇は1852(嘉永5)年11月3日(旧暦9月22日)、孝明(こうめい)天皇の皇子として京都で生まれました。

    • 明治天皇の生母である中山慶子
      明治天皇の生母である中山慶子

     ペリー提督が浦賀に来航した前年にあたり、母は権大納言(ごんだいなごん)・中山忠能(ただやす)の娘で、典侍(すけ)・中山慶子(よしこ)でした。

     孝明天皇が67年1月30日に急死すると、2月13日、睦仁(むつひと)親王が践祚(せんそ)(即位)して第122代の天皇(明治天皇)となります。数え年16歳でした。

     アメリカの開国要求に苦慮した幕府は、通商条約締結に天皇の同意を求めました。それ以降、天皇・朝廷の権威と政治的位置がせりあがり、天皇は政局の中心に置かれるようになって、「王政復古の大号令」が発せられました。

     とはいえ、明治新政府の初の会議で、議定の一人が新天皇のことを「幼沖(ようちゅう)(おさないこと)の天子」と言ったかと思えば、天皇に謁見した外交団のメンバーは、「眉は()られて額の上により高く描かれ、(ほお)には紅をさし、唇は赤と金に塗られ、歯はお歯黒で染められていた」天皇の姿を目撃していました。(ミットフォード著『英国外交官の見た幕末維新』)

     天皇は、これまで宮中にこもり、公家や女官らに取り囲まれて生活してきました。しかし、これから先は、「王政復古」に基づいて、天皇が裁断を下す「天皇親政」を目指さなくてはなりません。

     維新政府の首脳らは、そのためにまず、天皇を公家や女官から切り離し、「君徳培養(くんとくばいよう)」の教育を進めることとします。とくに古い風習の京都から天皇を地方に連れ出し、臣民の暮らしぶりを見てもらう「行幸(ぎょうこう)」を検討します。

    「見える天皇」に

     政府は、宮中改革に着手し、明治天皇の文武にわたる教育をスタートさせました。

     1871年、宮内大丞(くないだいじょう)に薩摩出身の吉井友実、西郷隆盛の側近として西南戦争で戦死する村田新八、侍従には、後に佐賀の乱を起こして斬罪(ざんざい)になる島義勇(しまよしたけ)、元幕臣の山岡鉄舟らが命じられます。いずれも尚武の気風に富んだ士族たちが天皇周辺に置かれたのです。

    • 美子皇后
      美子皇后

     同時に、宮中の女官の多くが罷免となり、後宮は、69年2月に入内(じゅだい)した美子(はるこ)皇后(のちの昭憲皇太后)の管轄になりました。皇后は故左大臣・一条忠香(ただか)の娘でした。

     天皇は乗馬をとても好むようになり、軍事演習にも参加し、騎馬で連隊を指揮するなど訓練を重ねます。西洋料理を食べ、(まげ)を切り、服装も洋服に改めて大きくイメージ・チェンジしました。

     洋学者の加藤弘之、次いで西周(にしあまね)が、天皇に学問を講じる「侍読(じどく)」として、欧米の政体や英米比較論などを進講しました。その一方で、元田が、大久保の推挙で熊本から宮内省に出仕し、明治天皇に「論語」を進講しました。

     元田は、熊本藩校・時習館(じしゅうかん)以来、開明派の横井小楠(しょうなん)の思想的影響を受け、「君徳輔導」によって立派な君主を育てることを自らの使命と心得、最後まで明治天皇の側近として仕えることになります。

     天皇は68年に大坂に「親征」した後、東京へ大行列を従えて「東幸(大巡幸)」します。宮中からほとんど外に出なかった孝明天皇とは対照的に、「民衆の前に現前する天皇」(大久保利通)としてデビューしたのです。

    • 明治九年六月二日奥羽御巡幸萬世橋之真景
      明治九年六月二日奥羽御巡幸萬世橋之真景

     この時の東京行幸の様子は、<維新政府、変革の序章>(第4回)で「新しい天皇像」と題して述べましたが、政府はこれによって、天皇を国民から「見える」存在にして、権力の交代とその所在を明確にし、天皇が名実ともに君主であることを示そうとしました。

     その後、明治天皇は、72年の近畿・中国・九州地方を手始めに、76年(奥羽)、78年(北陸・東海道)、80年(中央道)、81年(山形・秋田・北海道)、85年(山陽道)と、いわゆる「六大巡幸」を行います。明治年間、天皇の地方巡幸は計60回を数えることになります。

     天皇は、廃藩置県を経ると、文雅(ぶんが)よりも「武を率いる、欧化をまとった、活発な、京都朝廷の君主ではなく国民の君主という像」(西川誠著『明治天皇の大日本帝国』)を確かなものにしていきました。

    天皇親政運動

     維新以降の政治は、薩長など西南雄藩の少数支配が続き、自由民権派から「有司専制」と厳しく批判されるようになります。士族の反乱や農民一揆も相次ぎました。

     とくに77年に発生した西南戦争時、西郷隆盛を信頼していた天皇は、征討には消極的で、一般の政務も滞る事態となりました。

     元田は、こうした一連の問題を天皇統治の危機ととらえたようです。このため、内閣の重要な会議には天皇が出席するようにして天皇の政治関与を図る一方、新設した侍補らが「内廷夜話(ないていやわ)」と称する催しを開いて天皇と親しく接するようにしました。

     1878年3月、新たに一等侍補として佐々木高行(たかゆき)(1830~1910年)が加わります。佐々木は旧土佐藩士、大久保と同じ生年であり、伊藤博文の11歳年上。後藤象二郎、坂本龍馬と「大政奉還の建白書」について協議したというキャリアの持ち主でした。

     新政府に入って司法大輔になり、岩倉使節団の一員として米欧各国を視察し、世界事情にも通じていました。征韓論政変では、下野した土佐派の板垣退助らと分かれて政府にとどまり、左院副議長や元老院議官を歴任しました。

     笠原英彦著『天皇親政』によりますと、佐々木や元田らの侍補グループは、天皇親政体制を強化するため、天皇輔導に熱心な大久保内務卿を右大臣ないし宮内卿として迎える工作を進めます。そして大久保は宮内卿就任を受諾しました。

     ところが、78年5月14日、大久保が暗殺され、この構想は宙に浮きます。

    • 佐々木高行
      佐々木高行

     暗殺犯の斬姦状(ざんかんじょう)は、今の政治は「天皇陛下の聖旨」に出ず、「衆庶人民の公議」によらず、「要路官吏数人の臆断(おくだん)専決」によるものだと、政権を強く批判していました。

     佐々木、元田ら侍補一同は同16日、天皇に対し、斬姦状の言う天皇親政の空洞化に触れつつ、「今日より御奮発し、天皇親政の御実行をあげさせ、内外の事情にも十分通じなくては、維新の御大業も水泡画餅(すいほうがべい)に帰す」と、危機感もあらわに上奏しました。翌々日には侍補らの閣議への陪席(天皇に従っての同席)も要求しました。

     これを契機に、伊藤博文と侍補との対立が露呈します。陪席要求について伊藤は強硬に反対し、拒絶しました。それは宮中と府中(政府)分離の原則に反し、侍補の政治介入につながるというのがその理由でした。

    侍補たちの抵抗

     侍補らは、大久保死去後の人事で、井上馨の工部卿就任にも反対しました。

     さらに78年秋の北陸・東海道巡幸で、民衆の疲弊ぶりを目にした天皇が、「勤倹(きんけん)」を重視するよう岩倉に告げると、侍補らは「勤倹」と「親裁」と「漸次立憲政体の確立」を求める議案を作成し、政府に実現を迫りました。

     「勤倹」は冗費節約を求めるものであり、殖産興業のために財政支出を拡大している政府を牽制(けんせい)するものでした。

     さらに侍輔らは、教育政策についても注文をつけ、政府に抵抗します。

     政府はフランスの教育制度にならって72年に学制を公布しましたが、地方の実情を無視した制度は、多くの弊害を生みました。このため、79年、学制を廃止し、地方の意向も尊重する「教育令」を新たに公布しようとしました。

     一方、明治天皇は、五箇条の御誓文で「智識を世界に求め」と述べたように、教育問題に熱心でした。巡幸先の学校視察で、天皇は「米国教育法による学課」のあり方などに不満を覚え、「本邦固有の道徳を涵養(かんよう)する」ことが緊要との考えを示していました。(ドナルド・キーン著『明治天皇』)

     

    「教学大旨」vs「教育議」

     こうした天皇の意見を踏まえ、政府の教育令制定を批判しつつ、元田の手で書かれたのが「教学大旨」でした。『明治天皇紀』によれば、以下のように記されていました。

    • 元田永孚
      元田永孚

     <維新の初めに、西洋の長所を取り入れ、それが功を奏した。とはいえ、一方で仁義忠孝をなおざりにし、洋風を競うばかりでは将来が危ぶまれ、君臣、父子の大義を忘れることになるかもしれない。これは我が教学の本意ではない。今後は、祖宗の訓典に基づき、仁義忠孝を明らかにし、道徳の学は孔子を主とし、誠実品行を尊び、中正な教育学問が行われるならば、我が国独立の精神において天下に恥じることはない>

     元田は儒教による道徳教育の充実を求めていました。これに対して、伊藤は、法制局書記官の井上(いのうえ)(こわし)(1843~1895年)に「教育議」を執筆させて対抗します。

     教育議では、道徳の退廃の原因は、開国と封建制の廃止によるものであり、教育の失敗のためではないと反論。そのうえで、古今を折衷し教典を斟酌(しんしゃく)して「国教」を打ち立てるようなことは「賢哲」(賢人と哲人)の仕事であって、政府のなしうるところではないと、政府主導の道徳教育に否定的な見解を示しました。

     結局、教育令は79年9月、原案のまま公布され、伊藤ら政府側が元田らの動きを退けます。

     政府は同年10月、侍補制度を廃止します。きっかけは侍補の副島(そえじま)種臣(たねおみ)の免職に侍補らが抵抗したことでした。こうした侍補による人事干渉の裏には、「天皇を擁する侍補の儒教主義と、伊藤を先頭とする政府の欧化主義の相いれない対立」が横たわっており、伊藤と元田との「教育論争は、まさに政府のありかたそのものにかかわっていた」(飛鳥井雅道著『明治大帝』)と指摘されています。

     なお、後年の90(明治23)年に発布される、「忠君愛国」をうたった『教育勅語』は、元田と井上が協力して起草にあたることになるのです。

    【主な参考・引用文献】

    ▽飛鳥井雅道『明治大帝』(講談社学術文庫)▽坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』(中公文庫)▽ドナルド・キーン『明治天皇(二)』(角地幸男訳、新潮文庫)▽ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』(講談社学術文庫)▽多木浩二『天皇の肖像』(岩波現代文庫)▽西川誠『天皇の歴史7 明治天皇の大日本帝国』(講談社学術文庫)▽笠原英彦『明治天皇―苦悩する「理想的君主」』(中公新書)▽同『天皇親政―佐々木高行日記にみる明治政府と宮廷』(同)▽宮内庁『明治天皇紀 第四』(吉川弘文館)▽佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』(講談社学術文庫)

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    2018年09月12日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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