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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <国会開設と憲法制定>第4回~「憲法」めぐり一大政変

    伊藤と大隈の衝突

    • 大隈重信(1873~74年頃)
      大隈重信(1873~74年頃)

     伊藤博文と並ぶ実力者だった大隈(おおくま)重信(しげのぶ)(1838~1922年)は、各参議に求められた憲法意見書をなかなか提出しませんでした。不審に思った明治天皇からの督促を受け、1881(明治14)年3月、ようやく左大臣・有栖川(ありすがわの)(みや)熾仁(たるひと)親王に提出しました。その際、大隈は、天皇に奏上する前に他の大臣・参議には見せないよう申し出ています。

     この意見書はすでに述べたように、イギリスの国会・政党政治を範とし、1年後に議員選挙、2年後に国会を開くというスケジュールを示していました。

     大隈としては、政党内閣・議院内閣制の案を明確に打ち出すことで、自由民権派の出鼻を(くじ)き、早期の選挙で多数派を形成し、政局の主導権を確保しようとしたとみられています。

     有栖川宮は、この意見書を読んで驚き、太政大臣・三条実美(さねとみ)と右大臣・岩倉具視(ともみ)にひそかに内示します。

     3か月を経た6月下旬、大隈意見書への批判が一気に噴き出します。岩倉がまず、大隈意見書は「可恐廉(おそるべきかど)」があると言い出します。

     伊藤は7月2日、岩倉への書簡で、「実に意外の急進論にて、とても魯鈍(ろどん)の博文、驥尾(きび)に随従候事(そうろうこと)は出来申さず」と、参議辞職の意向を伝えました。

    • 大隈重信の憲法意見書
      大隈重信の憲法意見書

     大久保利通の暗殺後、伊藤と大隈は、憲法問題を含めて協力・連携して政権運営をしてきました。伊藤にすれば、この一件で大隈は、自分と相談もせずに抜け駆けの上奏をした、これは許せない、と思ったようです。

     とくに大隈意見書にある「政党官」の任命は、「君権を人民に移すに等しい」と反発。三条への書簡では、「大隈の建言は、恐らくは同氏一己(いっこ)の考案には有之間布(これあるまじく)」と、大隈と福沢諭吉系の人々との結託を疑っていました。

     この年初まで良好だった伊藤と大隈との間に、いったい何があったのでしょうか。

     真辺将之著『大隈重信』は、大隈意見書が突如問題化した裏に、太政官大書記官・井上(いのうえ)(こわし)(1843~95年)の暗躍があったと指摘しています。

     井上は6月ごろから、岩倉に対して大隈意見書の問題点を挙げ、伊藤に対してはプロイセン(プロシア)流憲法の確立を訴え、大隈意見書の背後に「福沢派あり」と危機感をあおり立てていました。

    井上毅のプロシア流

    • 井上毅
      井上毅

     井上毅は、元熊本藩士で、幕末に江戸に遊学しフランス学を学びました。維新後は司法省官吏となり、フランス、ドイツ、ベルギーなどに派遣され、欧州諸国の法制を研究しています。

     74年の清国との北京交渉で、大久保利通に随行してその知遇を得て、75年にはプロシア憲法を翻訳・紹介しています。

     井上は81年6月上旬、岩倉から大隈意見書を見せられ、憲法調査を命じられました。井上は外務省法律顧問のドイツ人・ロエスレルとも相談して報告書を提出します。

     岩倉は井上案を自らの意見書として、7月5日、三条、有栖川宮の両大臣に提出しました。それは憲法起草の根本方針を列挙した「大綱領」などからなっていました。

    のちの明治憲法は、(おおむ)ね、この線に沿って作成が進められることになるので、とても重要な文書とされます。

    • 岩倉具視の「憲法中綱領之議」
      岩倉具視の「憲法中綱領之議」

     その主なポイントは次のようなものでした。(清水伸『明治憲法制定史(上)』)

     ▽わが国の憲法は欽定(きんてい)憲法でなければならない
     ▽国会の構成と運営はイギリスを範とせずに、プロシアのそれによる
     ▽国務大臣は天皇の親任によってその地位を安定せしめる
     ▽国務大臣はおのおの天皇に対して責任を負い、連帯責任としない
     ▽予算が国会で成立しないときは、前年度の予算を施行しうるようにする

    大隈意見書を排撃

     天皇が大臣以下、文武官の任免権をもつことや、連帯責任を否定する単独輔弼(ほひつ)責任制、予算が成立しない時の前年予算執行ルールなどは、いずれも国会・政党政治を否定するものと言えます。

     実際、井上起草の岩倉意見書は、イギリス国会の権限は強大であり、立法権のみならず、行政の実権も把握している。首相の進退も多数党に左右されていて、国王はいたずらに「虚器」(名ばかりで役に立たない器)を擁するのみ、と批判しています。

     これに対してプロシアでは、「立法権は議院とこれを分かつといえども、行政権はもっぱら国王の手中に在り」、「国王は議会政党の多少にかかわらず宰相を選任」できると強調していました。

     このように岩倉意見書は、大隈意見書を強く排撃していたのです。

     7月5日、伊藤のところに大隈が謝罪に訪れました。伊藤は大隈を「福沢(ごと)き者の代理を勤むる、(もっと)可笑(わらうべし)」と、面責しました。

     伊藤が「結託」を疑った福沢と大隈とは、昵懇(じっこん)の間柄でした。

     福沢は79年に著した『国会論』で、イギリス流の議院内閣制の導入を提唱していました。大隈意見書も、慶応義塾系の交詢社の私擬(しぎ)憲法案と類似しており、実際、福沢門下の矢野文雄が書いたと言われています。このため、両者の連携を勘ぐられる素地はあったようです。

     他方、伊藤と大隈と井上馨は、とてもウマが合いました。ただ、伊藤と大隈は政治的ライバルであり、伊藤と井上は長州出身、大隈は肥前と藩閥が異なりました。ここにきて憲法観の違いが露呈し、伊藤と大隈の間に確執が生じたのです。

     稲田正次著『明治憲法成立史』は、この時分の政界模様をこう描いています。

    • 黒田清隆
      黒田清隆

     <7月末までには、井上毅の熱心な工作によって井上(馨)、黒田(清隆)、西郷(従道)、松方(正義)らの薩長の最も有力な分子が、伊藤にドイツ・プロシア流の憲法取り調べを担当せしめて、イギリス流憲法を奉ずる大隈と対決しようと一致した態度をとっており、三条太政大臣もこれに同意を与えるまでに至った。

     かくて政治上の変動は早晩到底避けられない情勢となったが、8月以後の北海道官有物払下げ問題に対する輿論(よろん)の沸騰によって、かような情勢は一層促進せしめられることになったのである>

    開拓使官有物払下げ事件

    • 開拓使札幌本庁
      開拓使札幌本庁

     北海道開拓のため、69年に設置された官庁である開拓使は、廃止を前にして、政府が10年間にわたり、1400万円余の巨費を投じてきた官舎や倉庫、工場、牧畜場、鉱山などを民間に払い下げることにしました

     開拓使の大書記官らが設立した「北海社」が払い下げを申請。その背後には大阪商法会議所会頭の五代(ごだい)友厚(ともあつ)らが経営する「関西貿易社」が存在していました。

     払い下げは、代金38万円余、無利息で30年賦という破格の安さでした。おまけに参議兼開拓使長官の黒田清隆と、払い下げを受ける五代は、同郷の薩摩出身でした。

     黒田が7月21日、三条太政大臣に払い下げを申請しました。閣議では有栖川宮と大隈らが反対したようですが、黒田の強硬論の前に、払い下げが決まります。

    • 沼間守一
      沼間守一

     しかし、同月26日、当時、沼間守一(ぬまもりかず)(1843~90年)が主宰していた『東京横浜毎日新聞』が社説で事件を暴露し、『郵便報知新聞』も疑惑追及で足並みをそろえ、政府寄りの『東京日日新聞』までが批判キャンペーンを始めます。国会開設をめざす自由民権派は、この黒田と五代という「藩閥と政商」との癒着を政局絡みで騒ぎ立てます。

     全国各地で藩閥攻撃の演説会が相次ぎました。8月25日には、民権派の沼間や保守派の福地源一郎らが東京・新富座(しんとみざ)(歌舞伎劇場)で払い下げ反対の大演説会を開催しました。

    大隈陰謀説

     こうした中、政権内で孤立し、払い下げに「反対」していた大隈に、世間の注目が集まります。しかし、これが大隈にとっては裏目に出ました。後年、大隈は新富座の大演説会に触れながらこう述懐しています。

     「ところがこれ(大隈人気)が贔屓(ひいき)の引き倒しで、迷惑千万なのは我輩(わがはい)一人ということになった。(輿論を)煽動(せんどう)して火を付けたのは大隈だということになったのはまだいい、(我輩が)この頃の言葉で革命とでもいうか、反乱を企てたという訳で、とうとう謀反(むほん)人になってしまった。しかも、大隈の謀反の裏には、福沢諭吉が参謀となり、軍用金は三井、三菱が出しているとまで政府側では言い出した」(『大隈侯昔日譚』)

     実際のところ、三菱や福沢門人による払い下げ反対運動もあったというので、事は厄介でした。こうして大隈は政府の転覆を目論(もくろ)んでいるという「大隈陰謀説」が流布されることになります。

     開拓使の責任者だった黒田は8月下旬、大隈は、三菱を後ろ盾に福沢と通謀し、後藤象二郎や板垣退助ら民権派と内通して悪だくみをしている、という風説をすっかり信じ込んだ手紙を書いています。

    • 国会開設之勅諭(国立公文書館蔵)
      国会開設之勅諭(国立公文書館蔵)

     同時期に、元老院の佐々木高行、天皇側近の元田永孚(ながざね)、陸軍の谷干城ら将軍一派が、払い下げの中止と大隈追放を求めます。

     ここで伊藤は、大隈を排除することで、政局の混乱を収拾しようと決断します。10月7日、伊藤は井上馨とともに「大隈の免職」を岩倉に進言し、11日の御前会議で大隈の参議辞職が認められました。

     ただ、明治天皇が、大隈追放に疑問を示したことから、最終的には大隈の辞表提出という形で決着することになりました。

     翌12日には、開拓使官有物払下げの中止と、「明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、(もっ)(ちん)が初志を成さんとす」との勅諭が発せられました。これにより、国会は9年後の1890年に開設されることが約束されました。

    明治14年政変

     この時の政変が、「明治14年政変」と呼ばれているのですが、辞任したのは大隈だけではありませんでした。

     農商務卿・河野敏鎌(とがま)駅逓(えきてい)総監・前島(ひそか)のほか、統計院幹事兼太政官大書記官・矢野文雄、会計検査院一等検査官・小野梓、統計院権少書記官・犬養毅、同・尾崎行雄、文部権大書記官・島田三郎らが免官となりました。いわば大隈の勢力が政府から一斉に追放されたのでした。

     姜範錫著『明治14年の政変』は、この集団的な免官は、「大隈一党が薩長主導体制の内部にありながら薩長藩閥政権にとってかわろうとしたから」だとし、「大隈らは、徒党政治を政党政治へと転換することをひょうぼうし、立憲的方法によって、それまで薩長両藩閥により寡占されてきた政治権力の掌握を試みたのである」と、大隈側が挑んだ権力闘争との見方をしています。

     一方、歴史学者の真辺将之氏は前掲書で、大隈の後年の回顧談を引いたうえで、「大隈の意図が、決して藩閥政府との全面的対抗にはなく、むしろ政府部内進歩派による政党内閣の実現ということにあったことが(うかが)える」と書いています。

     いずれにしても、大隈は、憲法意見書の提出や、その内容の具体化を巡って用意周到さを欠いており、陰謀説にも押しまくられた感があります。

     憲法意見書と官有物払下げ事件が火を付けた一大政変劇は、結局、何をもたらしたのでしょうか。

     第1は大隈の追放によって、文字通り、薩長藩閥政権を確立させることになります。

     第2は民権派が求めていた国会開設の時期が決まり、政党を誕生させます。

     第3に憲法については、イギリス流の議院内閣制ではなく、プロシア流の君主権の強い憲法とする方向が固まる――など、近代日本政治のゆくえに大きな影響を与えたのでした。 

    【主な参考・引用文献】

    ▽大久保利謙『明治国家の形成』(吉川弘文館)▽真辺将之『大隈重信―民意と統治の相克』(中公叢書)▽清水伸『明治憲法制定史』(原書房)▽稲田正次『明治憲法成立史』(有斐閣)▽松枝保二編『大隈侯昔日譚』(報知新聞社出版部)▽牧原憲夫『民権と憲法』(岩波新書)▽坂本多加雄『明治国家の建設』(中公文庫)▽升味準之輔『日本政党史論 第2巻』(東京大学出版会)▽渡辺幾治郎『大隈重信』(時事通信社)▽北岡伸一『独立自尊―福沢諭吉の挑戦』(中公文庫)▽五百旗頭薫「大隈重信」(筒井清忠編『明治史講義【人物篇】』=ちくま新書)▽小林和幸編『明治史講義【テーマ篇】』(ちくま新書)▽姜範錫著『明治14年の政変―大隈重信一派が挑んだもの』(朝日選書)▽坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫)

     (本文中の写真で出典のないものは、国立国会図書館ウェブサイトから)

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    2018年10月10日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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