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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <国会開設と憲法制定>第6回~「板垣死すとも自由は死せず」

    自由党と改進党

     1881(明治14)年、日本政府が9年後の議会開設を公約すると、その90年に向けて政治の新たな動きが始まります。民権派は政党を結成し、政府側は国会開設前の憲法制定準備を加速させました。

    • 自由党盟約
      自由党盟約

     「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」が出された直後の81年10月、自由党の創立大会が開かれ、党の総理に板垣退助、副総理に中島信行、常議員に後藤象二郎、馬場辰猪(ばばたつい)末広鉄腸(すえひろてっちょう)竹内綱(たけうちつな)らが選ばれました(同月29日)。

     決定された自由党盟約は、「自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図るべし」「善良なる立憲政体を確立するに尽力すべし」などとうたっています。基本政策は一院制、人権保障、自由主義経済が柱で、東京に中央本部、32の地方部をもつ全国政党になります。ところが、82年6月、政府が集会条例を改正し、政治結社の支社を禁じたため、地方部は解散に追い込まれます。

     一方、同年4月16日、明治14年政変で失脚した前参議・大隈重信を党首に担ぐ立憲改進党も発足します。大隈のブレーン・小野梓(おのあずさ)が構想と準備を進めていました。この政変で政府を追われた前農商務卿・河野敏鎌(とがま)や元官僚の矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄、嚶鳴社(おうめいしゃ)の沼間守一らが参加しました。

    • 立憲改進党綱領
      立憲改進党綱領

     綱領には、「内治の改良を主として国権の拡張に及ぼすこと」、地方自治の基礎確立、選挙権の伸長拡大などが盛り込まれました。

     当日、結成大会で配布された小野起草の<改進党人に告ぐ>には、わが党は「(フランスの)ルソーの余流」でも、「漸進の外貌(がいぼう)(外見)をとる党派」でもないとあります(山本四郎著『日本政党史』)。つまり、急進派の自由党でも、藩閥のような保守でもない、進歩的な路線をとる政党という意味でしょう。同党は、イギリス流の二院制議会の確立を目標に、府県会への進出を図ることになります。

    「御本望でしょう」

    • 遭難当時の板垣退助
      遭難当時の板垣退助

     1882年3月から東海地方の遊説に出た自由党総理・板垣退助は、4月6日、岐阜県の富茂登村(ふもとむら)(現・岐阜市)で開かれた懇親会に出席します。

     1時間半、熱弁をふるった板垣は、午後6時ごろ、会場の玄関先で、刃物をもった暴漢に襲われ、左胸を刺されます。板垣はさらに向かってくる刺客の手首を握ろうとして、刃物で右手指を負傷しました。

     自由党幹事の内藤魯一(ろいち)が駆けつけ、刺客を取り押さえると、板垣は刺客を睥睨(へいげい)(横目でにらみつける)し、『板垣死すとも自由は死せず』と叫びました。

     この部分は『自由党史』(板垣監修)から引きましたが、この言葉は、刺客に向けられたのではなく、後になって周辺に語ったものという説もあります。ただ、前年81年9月の東北遊説で、「権利自由の消長伸縮に関することは、死をもってこれを守る」と演説しており、こうした決意が名言につながったともいわれます。(中元崇智「自由民権運動と藩閥政府」)

     岐阜病院の医師は、「胸部2か所の傷は極めて重いけれども、幸い肺に達せず」と診断しました。板垣は、土佐藩軍を率いて戊辰戦争の官軍に()せ参じた歴戦の勇士でした。板垣には小具足(こぐそく)(すねあてなど甲冑(かっちゅう)に付属する防具)組打術(くみうちじゅつ)の心得があり、これで防御できたのだと、警察官に語りました。

     党総理の暗殺未遂事件に、党員たちは「政府筋の放った刺客によるもの」と激昂(げっこう)します。しかし、犯人は単独犯で愛知県の士族でした。小学校の教員をしており、「勤王の志()み難くして国賊、板垣退助を(ちゅう)す(罪ある人を殺す)」との遺書を残していました。

    • 病院長時代の後藤新平(後藤新平記念館所蔵)
      病院長時代の後藤新平(後藤新平記念館所蔵)

     板垣遭難に隣県の愛知県から、まだ年若の愛知県病院長・後藤新平(ごとうしんぺい)(のちの内相・外相 1857~1929年)が駆けつけました。後藤が板垣の居室に入って「御負傷だそうですな、御本望(ごほんもう)でしょう」と語りかけると、板垣は黙ってニコッと笑いました。

     後藤が手当てをしたあと、勅使(天皇の意思を伝える使者)派遣の電報が飛び込んできます。板垣周辺では「政府の緩和策だ」「拝辞(はいじ)すべきだ」との声が相次ぎます。しかし、板垣はこれを制して「聖恩、臣退助の身に下る」と感極まり、涙をこぼしました。

     勅使は4月12日、板垣を訪ね、聖旨の伝達と菓子料300円を下賜(かし)しました。

     後藤については、板垣が「あの男は医者にしておくのは惜しい。政治家にすれば立派なものになれるのだが」と語ったエピソードが残されています。(鶴見祐輔著『<決定版>正伝(せいでん)・後藤新平』)


    なぜ、伊藤は訪欧したのか

     明治14年政変後の81年10月、政府は、参議と卿(各省長官)を兼任させるとともに、新たに最高官庁として参事院を設けます。伊藤博文が議長に就任し、次のような内閣改造が行われました。

     外務卿・井上馨(長州)、内務卿・山田顕義(あきよし)(長州)、大蔵卿・松方正義(薩摩)、陸軍卿・大山(いわお)(薩摩)、参謀本部長・山県有朋(長州)、海軍卿・川村純義(薩摩)、文部卿・福岡孝弟(たかちか)(土佐)、工部卿・佐々木高行(土佐)、司法卿・大木喬任(たかとう)(肥前)、農商務卿・西郷従道(薩摩)、開発長官・黒田清隆(薩摩)です。

     12人のうち、伊藤をはじめ4人が旧長州藩、5人が旧薩摩藩、2人が旧土佐藩、大木1人が旧肥前藩の出身で、薩摩・長州の両藩出身者が国政の中枢を掌握する体制が生まれました。

     82年1月、元老院議長の寺島宗則が伊藤参議を欧州に1か年派遣し、憲法の原理と実際の運用を調査させることを提案します。

     伊藤が憲法起草の責任者になることは、すでに政府内で一致した見方でした。また、政変でイギリス流の議院内閣制を唱えていた大隈重信が閣外追放された結果、岩倉具視と井上毅が構想したプロイセン(プロシア)型立憲君主制導入の方向が固まっていました。

     それでは、なぜ、伊藤は訪欧することになったのでしょうか。

     当時の伊藤は、立憲構想に関して、大隈に先んじられただけでなく、右大臣・岩倉具視が法制官僚の井上毅を使って独自の憲法構想をまとめたことに衝撃を受けていました。そこで伊藤は、この訪欧を、岩倉―井上路線の憲法制定の流れに待ったをかけ、立憲作業の主導権を奪回する「唯一無二のチャンス」ととらえたようです。(瀧井一博著『文明史のなかの明治憲法』)

    • ベルリン大学(19世紀末、米国議会図書館蔵)
      ベルリン大学(19世紀末、米国議会図書館蔵)

     伊藤の出発前、太政大臣の三条実美は、全参議に対し一致協力して国政に当たるよう要請しました。これは、かつて岩倉使節団の米欧回覧の際、外遊組と留守政府との間で摩擦が絶えず、明治6年政変に至ったことを念頭に置いたものでした。

     伊藤の外遊については、政府内や新聞言論界に、その意図をいぶかる声が少なくありませんでした。大木ら参事は連名で「同心協力」を誓う旨を奉答しました。

     82年3月14日、伊藤は日本を()ち、5月にドイツ帝国の首都ベルリンに到着します。参事院議官補・伊東巳代治(みよじ)、同・西園寺公望(きんもち)、大蔵少書記官・平田東助(とうすけ)、大審院判事・三好退蔵(たいぞう)らが随行しました。


    ドイツで憲法調査

     伊藤は73年3月、岩倉使節団の一員としてベルリンを訪問したことがありました。

     使節団の一行が、「国際社会は、万国公法より、力がものをいう」という首相・ビスマルクの言葉に強い衝撃を受けたことは、<維新政府、変革の序章>(第8回)で取り上げました。

     ドイツ帝国は、その2年前、プロイセンをはじめ22の君主国などからなる連邦国家として成立し、憲法も採択されたばかりでした。

     議会は、各邦を代表する連邦参議院(上院)と、全国の男子普通選挙で選出された帝国議会(下院)からなり、帝国宰相は皇帝に対して責任を負うだけで、議会の権限は制約されていました。

     ビスマルクは、いわゆる「文化闘争」(1871~80年)に取り組み、プロテスタントに比して少数派のカトリック教徒がドイツの国内統一を妨げているとして、カトリック政党の「中央党」と対決、カトリック聖職者らを抑圧しました。

    • グナイスト(大英図書館蔵)
      グナイスト(大英図書館蔵)

     また、ドイツ社会主義労働者党(のちの社会民主党)が結成されると、78年、社会主義者鎮圧法を制定し、その活動を禁圧します。その一方で80年代に入ると、疾病・災害・養老保険といった社会政策を推進するなど「アメとムチ」の政治手法をとります。この間、ビスマルクは、帝国議会で安定した多数勢力を確保するための政党・議会工作に腐心しています。

     伊藤は、9年ぶりに再訪したベルリンで、ベルリン大学の憲法学者・グナイスト(1816~95年)に会います。ウィーン会議を主宰したメッテルニッヒが失脚した民衆蜂起「三月革命」(1848年)は、ベルリン大学にも波及しましたが、当時、青年講師だったグナイストは、過激な大学改革案を主張し、一時、大学紛争の事実上のリーダーでした。(潮木守一『ドイツの大学』)

    • ヴィルヘルム1世(大英図書館蔵)
      ヴィルヘルム1世(大英図書館蔵)

     グナイストは、イギリス憲政史の研究者である一方、1867年からは帝国議会議員を務めるなど「生きた政治」にも通じていました。

     伊藤らを迎えたグナイストは、「憲法は法文ではない。精神である、国家の能力である。日本の風俗人情や歴史を説明してもらったうえで、参考になることは述べてもよい」と歴史法学者らしいことを言います。

     また、日本が国会を設立するにしても、軍備や予算には介入させないよう、「甚微弱(はなはだびじゃく)」のものがいいと助言したりしました。この点、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世も、82年8月、伊藤らを食事に招いた席で、国会に予算許諾の権利を与えれば「内乱」の元になるとの考えを示し、「日本天子のために、国会の開かるるを賀せず(祝えない)」と付け加えました。

     伊藤らは5月下旬から2か月余り、グナイストの高弟のモッセからドイツ憲法の沿革や条文について集中講義を受けました。


    「立憲カリスマ」の誕生

    • シュタイン
      シュタイン

     伊藤らは82年8月、オーストリア=ハンガリー帝国を訪問し、ウィーン大学の国家学者・シュタイン(1815~90年)と面会します。伊藤はほぼ3か月、当地に滞在し、講義を聴きます。

     オーストリアは、ドイツ統一で除外されたあと、1867年にハンガリーを王国と認め、同じ君主をいただくオーストリア=ハンガリー帝国を形成しました。当時、国内のチェコやポーランド、ルーマニアなどから自治権要求が強まっていましたが、皇帝のフランツ・ヨーゼフは、強力な君主権を行使して多民族国家を束ね、議会もコントロールしていました。

     伊藤が師事したシュタインは、近代行政学の父と呼ばれる学者です。伊藤は、今回の外遊にあたり、憲法の法律学的知識にとどまらず、行政の実体や慣行、行政府と立法府との関係、官僚機構や選挙などについて幅広く調査しようとしていました。

     伊藤はシュタインに会ったあと、8月11日付の岩倉宛て書簡で「グナイスト、シュタインの両氏に就き、国家組織の大体を了解することを得た」としたうえで、「英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとするの勢いは、今日我国の現情」だけれど、今は「これを挽回(ばんかい)するの道理と手段とを得、心(ひそか)死処(ししょ)を得るの心地」である、と書きました。

    • 皇帝フランツ・ヨーゼフ(米国議会図書館蔵)
      皇帝フランツ・ヨーゼフ(米国議会図書館蔵)

     伊藤は、シュタインから、憲法の何たるかを教示され、「実際の政治がうまく機能するためには、政府の組織を固め、行政を確立することが何よりも重要」との確信を持つに至ります。(瀧井一博「伊藤博文―日本型立憲主義の造形者」)

     伊藤はその後、ドイツ各地を回り、83年1月にはビスマルク首相と会見しました。3月にはイギリスに渡って調査・研究を重ね、5月のロシア皇帝戴冠式(たいかんしき)に出席したあと、8月に帰国しました。

     伊藤は、この1年半にわたる欧州での憲法調査を通じて、「立憲カリスマ」とでも言うべき威信の回復に成功したのでした。(坂本一登著『伊藤博文と明治国家形成』)


    【主な参考・引用文献】

    ▽山本四郎『日本政党史(上)』(教育社歴史新書)▽坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』(中公文庫)▽久保田哲『帝国議会』(中公新書)▽真辺将之『大隈重信』(中公叢書)▽中元崇智「自由民権運動と藩閥政府」(『明治史講義』=ちくま新書)▽松沢裕作『自由民権運動』(岩波新書)▽『国史大辞典』(吉川弘文館)▽板垣退助監修『自由党史(中)』(岩波文庫)▽鶴見祐輔『<決定版>正伝・後藤新平』(藤原書店)▽坂本一登『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入』(講談社学術文庫)▽瀧井一博『文明史のなかの明治憲法―この国のかたちと西洋体験』(講談社選書メチエ)▽同「伊藤博文―日本型立憲主義の造形者」(『明治史講義』=ちくま新書)▽伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)▽大石眞『日本憲法史』(有斐閣)▽清水伸『明治憲法制定史(上)』(原書房)▽成瀬治・黒川康・伊東孝之『ドイツ現代史』(山川出版社)▽津野田興一『やりなおし高校世界史』(ちくま新書)▽潮木守一『ドイツの大学―文化史的考察』(講談社学術文庫)▽高校教科書『詳説 世界史B』(山川出版社)

    (本文中の写真で出典表記のないものは、国立国会図書館ウェブサイトから)

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    2018年11月07日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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