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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <国会開設と憲法制定>第7回~日本企業勃興の先導者

    大蔵卿・松方正義

    • 松方正義
      松方正義

     1881年の「明治14年政変」は、政府の財政・金融政策にも大修正を促すことになりました。

     それは、積極財政論者の大蔵卿(おおくらきょう)(現在の財務相)大隈重信が政変で失脚し、同年10月、健全財政主義者の松方正義(まつかたまさよし)(1835~1924年)が後任の大蔵卿に就任したことに始まります。松方はインフレの克服、通貨の安定を期して、「松方財政」と呼ばれる経済政策を展開します。

     松方は薩摩の人です。同郷の大久保利通の四つ年下で、鹿児島城下に生まれました。大久保同様、島津久光の側近として活躍し、以来、大久保の腹心として新政府に出仕し、70年に民部大丞(だいじょう)、廃藩置県が行われた翌71年には大蔵少丞に転じました。

     当時の大蔵省は強大な官庁で、大蔵卿は大久保、大蔵大輔(たいふ)は井上馨、租税頭(そぜいのかみ)に伊藤博文、大蔵大丞は渋沢栄一。その後の日本政治・経済界をリードする逸材が参集していました。(土屋喬雄著『日本資本主義史上の指導者たち』)

     松方は、大久保の指導の下で地租改正に取り組んだあと、78年にはフランスに長期出張しました。フランスは、パリ・コミューン崩壊を経て、75年、共和政に基づく憲法が制定され、第3共和政(フランス革命後と1848年の2月革命後に続く3回目の共和政)が確立していました。

     松方は、同国蔵相のレオン・セイと会談し、財政・金融政策をめぐって助言を得ます。松方は帰国後の80年、内務卿に就いて第2回内国勧業博覧会(81年)の副総裁を務めるなど、滞欧中に暗殺された大久保の遺志を継いで、殖産興業政策を推進しました。

    「松方財政」の光と影

     当時、政府は、激しいインフレーション(物価が上昇し、貨幣の購買力が長期的に低下すること)と財政難に陥っていました。

     77年の西南戦争の征討費(同年度の歳入規模の8割に相当)を、銀行からの借入金と不換紙幣(金貨や銀貨など正貨と交換=兌換(だかん)できない紙幣)の増発によってまかなったためでした。

     米価は80年までに2倍に急騰し、紙幣価値は下落し、輸入超過が続いて正貨が流出していました。

     前任の大隈も、在任中の78年度から紙幣整理に着手していました。80年5月、大隈が5000万円の外債を発行して、一挙に紙幣を消却することを提案し、政府部内の反対で却下されたことはすでに述べました。

    • 日本銀行
      日本銀行

     大隈の外債募集に反対していた松方は、大蔵卿に就くと、紙幣整理と並行して正貨準備を増大させ、兌換制度の導入を図ることにしました。

     松方は82年、中央銀行としてベルギー国立銀行をモデルに「日本銀行」を設立します。84年に銀行券の発行を日銀に一元化すると、85年、日銀は銀と交換ができる「日本銀行兌換銀券」を発行し、銀本位の貨幣制度を整えます。

     こうして松方はインフレにピリオドを打ち、日本経済を正常な軌道に乗せた財政家として高い評価を受けることになります。

     この頃から政府による官営事業の払い下げが本格化し、87年には新町(しんまち)紡績所、長崎造船所、釜石鉄山などが相次いで民間に払い下げられました。翌88年、三池(みいけ)炭鉱は財産評価額の約10倍で三井が落札し、佐渡金山や生野(いくの)銀山は96年になって三菱が払下げを受けています。(杉山伸也著『日本経済史』)

     85年、松方は伊藤博文内閣に蔵相として入閣し、それ以後、黒田清隆・山県有明両内閣でも蔵相を続投。91年に自ら首相として組閣した際も蔵相を兼任するなど、長期にわたって金融・財政政策の指揮をとります。

     しかし、「松方財政」は光明ばかりではありませんでした。

     松方は、紙幣整理の財源を得るため、増税や間接税の導入で税収増を図る一方、軍事費を除いて、歳出を削減しました。歳入の余剰を不換紙幣の処分に充てたのです。

     この緊縮政策の結果、デフレーション(物価が持続的に下落し、雇用の減少、生産の縮小が生じる)が起き、81年~86年まで、深刻な不況が続きました。

     大隈財政下では好景気に浴した農村は、一転、この「松方デフレ」による農産物価格の下落により、農地を売らざるをえなくなって没落する自作農が続出しました。

     このため、借金の返済猶予などを求める農民たちによる騒擾(そうじょう)事件が各地で多発することになります。

    岩崎弥太郎の「三菱」

    • 岩崎弥太郎
      岩崎弥太郎

     「明治14年政変」は、実業界にも影響を及ぼしました。

     岩崎弥太郎(やたろう)(1834~85年)が創業した「三菱」と近い関係にあった大隈が政変で政府を()われたことから、三菱の海運業独占に対する風当たりが一層強まったのです。

     岩崎は、土佐国安芸(あき)郡(現・安芸市)の下級武士の出身です。土佐藩参政・吉田東洋(とうよう)の門人となり、殖産興業のための機関として66年に創設された「開成館」(総裁・後藤象二郎)の長崎出張所で藩の貿易をまかされます。

     イギリス商人・グラバーらから武器・弾薬・艦船などを買い付け、肥前藩の大隈とも知り合いになります。坂本龍馬らが長崎で創立した貿易商社「海援隊(かいえんたい)」のトラブルの処理にもあたり、その後、大阪でも通商の仕事を続けました。

     岩崎は71年、旧土佐藩の貿易・海運事業を引き継ぐ「九十九(つくも)商会」の経営を引き受けます。その際、藩から蒸気船2隻が払い下げられました。その際、同商会の旗印を、藩主・山内家の家紋「()(がしわ)」を基本にした「スリーダイヤ」(三菱マーク)としました。

     73年には、社名を「三菱商会」と改めて社主となり、「専心海運業に従事し、商法をもって身を立てる覚悟」を固めて、東京―大阪間航路にも進出しました。翌74年の台湾出兵では軍事輸送を引き受け、大久保や大隈の信任を得て、政府の保有船を無償で下付(下げ渡し)されます。

     三井組(みついぐみ)などが設立した半官半民の「郵便蒸気船会社」は、この軍事輸送を断ったのを機に、政府庇護(ひご)の立場を失い、解散に追い込まれます。

     岩崎は、武士出身のために客におじぎのできない部下を戒めるとともに、「いつも笑顔を絶やすな」と店には「おかめ」の面をかけさせたそうです。いわゆる顧客第一の“前垂れ商法”に徹するよう求めたのです。

    「海上王国」の出現

    • 三菱が運航していた広島丸。1877(明治10)年に明治天皇が京都から東京に戻る際に乗船した
      三菱が運航していた広島丸。1877(明治10)年に明治天皇が京都から東京に戻る際に乗船した

     三菱はその後、政府の手厚い保護を受けながら、国内・海外航路を開拓し、沿岸航路から海外勢を駆逐します。次いで77年の西南戦争でも、軍事輸送に貢献して巨利を得ます。

     同年末、三菱が所有する汽船は61隻、3万5464トン、我が国の汽船総トン数の73%を占め、「わずか四、五年のあいだに忽然(こつぜん)と、“海上王国”三菱が出現」(坂本藤良著『幕末維新の経済人』)したのです。

     岩崎は、鉱山・造船・金融・保険・貿易などの分野にも積極的に進出して事業を拡大し、三菱を、江戸時代から豪商で鳴らしてきた「三井」に匹敵する巨商に成長させます。

     しかし、80年ごろから三菱の海運業独占に対する批判が噴き出します。

     81年暮れ、参議の井上馨、農商務省の品川弥二郎らは、実業家の渋沢栄一や三井物産の益田孝(1848~1938年)らとはかり、「三菱汽船」に対抗できる、新しい海運会社の設立準備を始めます(宮本又郎著『企業家たちの挑戦』)。明治14年政変で大隈、三菱と対決姿勢をとった政府は、三菱に対して監督・規制強化を図ります。

     82年、「東京風帆船(ふうはんせん)」など3社を統合して巨大会社「共同運輸」が設立されます。

     岩崎弥太郎はこれに抵抗し、共同運輸との間で運賃切り下げや積み荷獲得競争を繰り広げます。しかし、85年2月、岩崎は胃がんのために死去し、弟の弥之助(やのすけ)(1851~1908年)が「郵便汽船三菱」の社長に就任しました。

     結局、三菱も共同運輸も、ともに大きな損失を生じ、共倒れの恐れも出たため歩み寄り、同年9月、両社の合併によって海運会社「日本郵船」が誕生しました。

    実業界のリーダー・渋沢栄一

    • 渋沢栄一
      渋沢栄一

     渋沢栄一(1840~1931年)は、武蔵国・血洗島村(ちあらいじまむら)(現・埼玉県深谷市)の豊かな農家に育ちました。当時の領主の過大な要求に不条理を感じた渋沢は、「官尊民卑(かんそんみんぴ)」の打破をめざすようになります。

     その後、江戸に出て儒学者・海保漁村(かいほぎょそん)の塾に入り、尊皇攘夷(そんのうじょうい)派として群馬の高崎城乗っ取りを計画しますが、寸前で中止しています。

     一橋家の用人(ようにん)の推薦で家臣に取り立てられ、67年のパリ万国博覧会に派遣された15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武(あきたけ)(1853~1910年)の使節団に、庶務・会計係として随行しました。2年近く欧州各国で見聞を広め、帰国後は慶喜が蟄居(ちっきょ)していた静岡で、金融・商社機能を併せもつ「商法会所(しょうほうかいしょ)」をつくります。

     渋沢は69年11月、政府から出仕を命じられ、民部省租税正(そぜいのかみ)に就きます。すぐにも辞任するつもりが、大隈に説得され、新設の「改正(がかり)」で、政策の調査・研究・立案にあたります。その一つが「国立(こくりつ)銀行」条例でした。これは「国立」と言っても国営ではなく、国の法律にもとづいて設立されるという意味で使われました。

    • 第一国立銀行
      第一国立銀行

     大蔵大丞の渋沢は、72年4月、三井組と小野組に対し、共同して銀行を設立するよう働きかけ、73年8月、第一国立銀行の開業にこぎつけます。その建物は、三井家の大番頭だった三野村利左衛門(みのむらりざえもん)(1821~77年)が東京・兜町(かぶとちょう)に建てた西洋館「三井ハウス」を譲り受けました。渋沢はこれを機会に官職から退いて、同銀行の総監役になります。

     島田昌和著『渋沢栄一』によりますと、その後、渋沢が会長や社長としてかかわった会社は、東京瓦斯(ガス)、日本煉瓦(レンガ)製造、東京製綱、京都織物、東京人造肥料、東京石川島造船所、帝国ホテル、王子製紙、磐城(いわき)炭鉱、広島水力電気、札幌麦酒(ビール)などの株式会社があります。さらに大阪紡績、日本鉄道、東京海上保険、日本郵船などの設立を援助し、役員として関与しました。

     また、会社の設立だけでなく、豊富な人的ネットワークをもとに、経済界のとりまとめにあたり、東京商法会議所や東京株式取引所、東京手形交換所などのビジネス関連団体を起こしました。

    「論語と算盤」

     渋沢栄一と岩崎弥太郎は、企業勃興(ぼっこう)期の指導者としてよく比較されます。2人の経営理念・手法をみますと、渋沢は、広く資本を公募して事業を推進することが公益に(かな)うという「合本(ごうほん)主義(一般的には株式会社制度をさす)」者でした。例えば、第一国立銀行や共同運輸はこれにあてはまります。

     これに対して、岩崎は個人組織による「専制主義」の主唱者でした。三菱汽船と共同運輸との海運業をめぐる争いは、2人の主義が違いが顕著な形であらわれた例でした。(井上潤著『渋沢栄一』)

    • 『論語と算盤』
      『論語と算盤』

     渋沢はまた、営利の追求も道義に合致するものでなければならないという「道徳経済合一(ごういつ)」を説きました。彼の訓話を集めて1927(昭和2)年に発行された『論語(ろんご)算盤(そろばん)』で、渋沢は、自分たちは「なるべく政治界、軍事界などがただ跋扈(ばっこ)(のさばり、はびこること)せずに、実業界がなるべく力を張るように希望する」と述べたうえで、こう続けています。

     「その富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」

     「道徳と離れた不道徳、欺瞞(ぎまん)浮華(ふか)軽佻(けいちょう)の商才は、いわゆる小才子(こざいし)小悧口(こりこう)であって、決して真の商才ではない」

     渋沢は官から民へと転進した1873年、「(孔子とその弟子たちの言行録である)論語の教訓を標準として、一生商売をやってみようと決心した」と述べています。

     渋沢は、実業教育や女子教育のため、多くの学校を創立するとともに、社会事業にも熱心に取り組みました。20世紀に入ると、アメリカをはじめ各国を相手に「民間経済外交」を幅広く展開するなど、その業績はまことに多岐にわたります。

     

    【主な参考・引用文献】

     ▽土屋喬雄『日本資本主義史上の指導者たち』(岩波新書)▽杉山伸也『日本経済史 近世―現代』(岩波書店)▽奈良岡聰智「岩崎弥太郎―三菱と日本海運業の自立」(『明治史講義 人物篇』ちくま新書)▽宮本又郎『日本の近代11 企業家たちの挑戦』(中央公論新社)▽島田昌和『渋沢栄一―社会企業家の先駆者』(岩波新書)▽井上潤『渋沢栄一―近代日本社会の創造者』(山川出版社)▽坂本藤良『幕末維新の経済人―先見力・決断力・指導力』(中公新書)▽木村昌人『渋沢栄一―民間経済外交の創始者』(同)▽渋沢栄一『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)▽『国史大辞典』(吉川弘文館)▽高校教科書『詳説日本史B』(山川出版社)

    (本文中の写真で出典表記のないものは、国立国会図書館ウェブサイトから)

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    2018年11月21日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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