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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <国会開設と憲法制定>第8回~「鹿鳴館」の女性たち

    「鹿鳴館」の建設

    • 鹿鳴館
      鹿鳴館

     1883(明治16)年、旧薩摩藩の屋敷跡(現・東京都千代田区内幸町、帝国ホテル隣)にレンガ造りの洋館が完成し、「鹿鳴館(ろくめいかん)」と名付けられました。「鹿鳴」とは、<詩経(しきょう)>に由来し、「宴会で客をもてなすときの詩歌・音楽」(『広辞苑』)という意味です。

     その西洋スタイルの館は、外国の賓客・要人の宿泊施設や、在日外国人・外交官相手の宴会場として、明治政府が建設しました。それまでグラント・前米大統領をはじめ貴賓(きひん)が来日しても、政府には、彼らをもてなす迎賓館がなかったのです。

     しかし、それだけではなく、別の狙いがありました。

     政府の最大の懸案は、不平等条約を打破して対外的独立を果たすことでした。ところが、四半世紀がたっても、全くその目処(めど)が立たず、首脳陣には焦りの色が見えていました。鹿鳴館は、不平等条約の改正に向け、日本が西洋と同等の「文明国」であることを、外国人に強く印象づけるための舞台装置として構想されたのです。

    推進役は井上馨

    • コンドル
      コンドル

     建設を推進したのは、当時の外務卿(外務大臣)・井上(かおる)(1835~1915年)です。

     ドイツ人の医師ベルツは、井上について「生気にみちた、理智的な面差(おもざ)しの小柄な人物で、ヨーロッパの文化や生活様式を完全に同化した日本人」(『ベルツの日記』)と評していました。井上は、政治・経済のみならず、社会生活の各領域まで西欧化しようとする「欧化主義」の体現者として、東洋の地に「欧州的一新帝国」を産み出そうと目論(もくろ)んでいました。

     鹿鳴館の設計者は、お雇い外国人でイギリスの建築家、コンドル(1852~1920年)でした。日本政府の招請を受けて77年1月に来日、工部省に入り、工部大学校造家学科で教えながら、数多くの官庁や公共建築の設計・監督にあたりました。

     鹿鳴館は94年の東京地震で被害を受け、華族会館に払い下げられたあと、1940年に取り壊されましたが、ニコライ堂や旧岩崎邸庭園・旧古河庭園の各洋館なども、コンドルの作品で、今でも見ることができます。

     鹿鳴館は2階建て、総建坪は466坪(約1537平方メートル)。1階に入るとホールや大食堂、談話室、玉突き場などがあり、中央の大階段を上がると舞踏室、その後方に宿泊用の部屋がありました。

    不平等条約の重さ

     明治新政府は、開国にあたって徳川幕府が諸外国と結んだ条約(和親・修好通商条約)を継承しました。

     日米和親条約(1854年)では、アメリカに片務的な「最恵国待遇」(日本がアメリカに付与したよりも有利な条件を他国に認めた時は、アメリカにも一方的に同様の条件を認める)を容認していました。幕府はイギリス・ロシア・オランダとも、ほぼ同様の条約を結びます。

     続く日米修好通商条約(58年)では、「領事裁判権」(日本に滞在するアメリカ人のトラブルや犯罪に関して、アメリカ領事による裁判を認める)と「協定関税」(日本は税率の決定権がなく、アメリカの同意を得て協定により税率を決める)が盛り込まれていました。幕府は、蘭・露・英・仏などとも、領事裁判権(治外法権)を認め、関税自主権を喪失した類似の不平等条約を結びました。

     当時、幕府は、欧州列強間のクリミア戦争や、英・仏と清国との第2次アヘン戦争などの国際情勢に助けられ、戦争を回避しながら諸外国と渡り合ったわけですが、条約の不平等性は否めず、その克服が明治政府の喫緊(きっきん)の課題になるわけです。

    条約交渉を再開

    • 寺島宗則
      寺島宗則

     日本政府は、岩倉米欧回覧使節団による条約改正交渉が挫折したあと、外務卿・寺島宗則(てらしまむねのり)(1832~93年)が交渉を再始動させます。1876年から、英仏と比べ日本に好意的だったアメリカとの間で個別交渉に臨みました。

     78年7月には、日本の関税自主権承認などで日米交渉は妥結しますが、この条約の実施は、他国と同様の条約を締結することが条件となっており、イギリスの反対により万事休してしまいます。

     その頃、不平等条約の実態をさらす事件が起きました。

     まず同年2月、イギリス商人のアヘン密輸事件で、横浜英国領事裁判所は商人に無罪判決を出しました。次いで79年7月、流行中のコレラ予防のため、日本政府が検疫停船仮規則の実施を列国に通告したにもかかわらず、ドイツ商船「ヘスペリア号」は、検疫を受けずに強引に入港しました。

     これらを受けて、日本国内では治外法権の撤廃を要求する世論が高まります。

    • 外務卿当時の井上馨
      外務卿当時の井上馨

     同年9月、新しい外務卿を命じられたのは井上馨でした。

     日本政治外交史が専門の五百旗頭薫氏の「条約改正外交」によりますと、井上は、交渉にあたり、領事裁判の撤廃を目標としつつも、当面、これは困難とみて行政規則の制定権(行政権の回復)と協定関税の引き上げから入りました。貿易や検疫などに関する行政規則も、各国の同意が必要で、日本が自主的に決められなかったのです。

     82年1月から条約改正予備会議が始まります。井上は4月の会議の席上、将来的な法権の全面回復(領事裁判の撤廃)と引き換えに内地を外国人に全面開放する意向を表明しました。

     内地開放は、各国が強く要求していたもので、貿易や居住地域を、開港・開市(かいし)以外の地域(内地)に拡大するものでした。井上は、80年に着工した鹿鳴館を、内地開放によって日本人と外国人が交流する演習の場とみていたほどで、この内地拡大表明によって関税交渉は大きく進展することになります。

    鹿鳴館の夜会

     井上が外務卿に就いて4年余り後の83年11月28日、鹿鳴館開館記念の夜会が開かれました。いわゆる「鹿鳴館時代」の始まりです。

    • 1883年頃の井上馨(右)と武子夫人(左)
      1883年頃の井上馨(右)と武子夫人(左)

     招待状は、井上外務卿と夫人・武子の連名で、皇族や大臣、外国公使、各官庁の幹部ら約1200人に出されました。オープニングは午後8時半でした。

     近藤富枝著『鹿鳴館貴婦人考』によりますと、この夜は、山川捨松(陸軍卿・大山巌夫人)や津田梅子(のちの津田塾大学創設者)、永井繁子(海軍大尉・瓜生外吉(うりゅうそときち)夫人)、井上武子のほか、外交官夫人である鍋島栄子(なべしまながこ)直大(なおひろ)夫人)、柳原(やなぎわら)初子(前光(さきみつ)夫人)、吉田貞子(清成夫人)らが踊ったとみられています。

     山川、津田、永井は、岩倉使節団の女子留学生として10年前後の在米生活を送り、帰国したばかりで、3人については<米欧回覧と文明開化>の章の第5回で詳述しました。

     井上武子は、父親が新田義貞の後裔(こうえい)という武家の名家の出身でした。76年6月、27歳の武子は、夫の馨、養女の末子とともに日本を()ち、米国に滞在後、9月からは英国のロンドンで暮らしました。武子は、語学やダンス、ファション、裁縫や料理などを覚え、一家は78年7月に帰国しました。

    • 伊藤梅子
      伊藤梅子

     柳原初子は、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)の娘で、夫・前光の駐露公使時代、ロシア皇帝アレクサンドル2世の馬車に爆弾が投げつけられた時、夫とともに馬車列にあってこれを目撃しています。(『鹿鳴館貴婦人考』)

     連日のように鹿鳴館の舞踏会が開かれるかたわら、慈善バザーも開かれました。その一方、「踊れる人」を増やすため、外国人教師を呼んで、政府高官の夫人や令嬢らを対象に「踏舞(とうぶ)練習会」も始まりました。伊藤博文の梅子夫人も率先して参加しました。

     当時、世間でも、西欧婦人をまねた洋装や束髪(そくはつ)が流行するなど、「欧化」が一世を風靡(ふうび)する「鹿鳴館時代」が現出しました。

    貴婦人たちを絶賛

    • ロチ
      ロチ

     1885(明治18)年11月の天長節(天皇誕生日の旧称)の夜会に招かれた外国人の1人に、ピエール・ロチ(1850~1923年)がいます。横浜に来港したフランスの練習船の艦長(海軍大尉)でした。ロチは作家でもあり、来日時の日本見聞記である『秋の日本』という作品を残しました。

     ロチは、その中の<江戸の舞踏会>で、「ロク・メイカンそのものは美しいものではない。われわれの国のどこかの温泉町の娯楽場(カジノ)に似ている」と、井上馨が聞いたらガッカリするようなことを書いています。

     その夜、ロチが菊に縁どられた階段を上っていくと、大臣の傍らに立って舞踏室の入り口で招待客を待ち受ける女性は、「非の打ちどころなく髪をゆった、秀でた利発そうな顔立ち」の人でした。「淡く地味な藤色の繻子(しゅす)の長い裳裾(もすそ)。真珠をちりばめた鞘形(さやがた)胴着(コルサージュ)。パリに出しても通用するような服装」で慇懃(いんぎん)挨拶(あいさつ)をしたあと、「すぐれた性質の気軽さを(もっ)て、アメリカ婦人のように、わたしに手を差しのべ」ました。

     この女性が井上武子で、彼女はここでヨーロッパ仕込みの接待術をみせたことになります。

    • 鍋島栄子(公益財団法人鍋島報效会所蔵)
      鍋島栄子(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

     夜会には、重臣たちの令嬢など「名花」がそろっていました。ロチは、通りすがりに「漆黒の髪。小さな愛らしい仔猫(こねこ)のような、美しいびろうど色の目」と「細長くしまった胴着をつけた極東の優しい佳人」に()きつけられます。

     この女性は、鹿鳴館初の夜会にも現れた、当時、30歳の鍋島栄子です。彼女は幕末期の佐賀藩主だった鍋島直大・駐イタリア公使と結婚、外交官夫人として才覚を働かせ、イタリア王室の王妃マルゲリータから、その指にはめていた指輪を外して与えられるほどの寵愛(ちょうあい)を受けました。

     なお、作家の芥川龍之介は、ロチの「江戸の舞踏会」を粉本(ふんぽん)(下敷き)にして短編小説『舞踏會』を著しました。このロチと芥川の描いた舞踏会を、舞台上に再現したという戯曲『鹿鳴館』が、作家・三島由紀夫によって書かれています。

    辛辣な批評

    • ビゴーの「社交界に出入りする紳士淑女」(川崎市市民ミュージアム所蔵)
      ビゴーの「社交界に出入りする紳士淑女」(川崎市市民ミュージアム所蔵)

     ロチは貴婦人たちを絶賛する一方で、盛装をした燕尾服(えんびふく)の紳士たちは「何だか(さる)によく似ているように思える」と書き、若い娘たちやその母親たちも、「パリから真っ()ぐに伝わってきた身繕(みづくろ)い」をしているのに、着こなしがしっくりせず、体型や顔についても辛辣(しんらつ)な批評をしています。

     82年1月、日本美術の研究のため来日したフランスの画家ビゴー(1860~1927年)は、時局風刺雑誌「トバエ」を横浜で発行し、種々の風刺画を描きました。

     「社交界に出入りする紳士淑女」と題した絵(87年5月)では、一緒に鏡をみる盛装の男女の、鏡に映る姿は、2人とも猿顔になっています。

    • 首相官邸で開かれた仮装舞踏会の参加者
      首相官邸で開かれた仮装舞踏会の参加者

     87年4月、首相官邸で「仮装舞踏会」が開かれます。

     伊藤博文首相はベネチアの貴族の衣装、井上外相は三河万歳、山県有朋・内務相は奇兵隊士に(ふん)するなど、閣僚や親王、実業家たちがそれぞれ仮装して「ばか騒ぎ」を繰り広げました。舞踏会は、ここで本来の目的を逸脱し、政治指導者らの「私的享楽」の場に堕したと見られることになります。

     84年には華族を(こう)(こう)(はく)()(だん)の5(しゃく)に分けた華族令も出されており、新聞など世論は、鹿鳴館での特権貴族の乱調ぶりや、男女間の醜聞を取り上げて批判しました。伊藤もその流言の渦中に置かれました。

    条約交渉、また挫折

     一方、井上外務卿による条約改正交渉は、84年、イギリス、ドイツとの間で協議が進展します。86~87年にかけて、新条約批准後2年以内に内地の開放を、批准5年後に領事裁判撤廃を実現する方向となります。ただし、その条件として、西洋式法典の編纂(へんさん)と、日本の裁判所への外国人判事・検事の任用が日本に求められました。

     しかし、日本国内では、外国人判事らの任用に対して批判が噴出し、内閣法律顧問のボアソナード(フランスの法学者)は、「領事裁判権存続以上に日本に害がある」と反対しました。谷干城・農商務相は反対の意見書を出して87年7月、辞任します。

    • 横浜港を出港するノルマントン号
      横浜港を出港するノルマントン号

     当時、イギリス貨物船・ノルマントン号事件が、国民の領事裁判撤廃要求に火を付けていました。86年10月、紀州沖で難破・沈没した同船は、船長をはじめイギリス・ドイツ人の乗組員がボートで脱出したものの、日本人船客25人が水死したのです。

     これに対して国内世論が沸騰する中、領事海難審判は、イギリス船長以下全員に無罪判決を下します(のちの再審で船長に禁錮3か月)。

     合意が近づいていたかに見えた井上馨の条約改正交渉は、閣内からも天皇周辺からも批判が相次ぎ、交渉はまたも頓挫(とんざ)し、87年9月、井上は外相辞任に追い込まれます。

     井上の「鹿鳴館外交」を支えた妻の武子は、ヨーロッパでの生活で、洋装のためコルセットの後紐(うしろひも)を締め上げるとき、「敵討(かたきう)ちにいくときの鉢巻にようだ」と思ったといいます。

    • 「鹿鳴館の華」と呼ばれた戸田極子(岩倉具視の娘)(江戸東京博物館所蔵)
      「鹿鳴館の華」と呼ばれた戸田極子(岩倉具視の娘)(江戸東京博物館所蔵)

     和装に慣れた当時の明治女性の多くが、それに悩んだだけでなく、見知らぬ外国人と相擁して踊ること自体に抵抗を覚えたことも想像に難くありません。

     半強制的に国策の欧化体制に組み込まれ、それでも日本の近代化のお役に立ちたいと努めた女性たち。その「鹿鳴館」の時代も、ここで幕を閉じることになります。

     作家の近藤富枝さんは『鹿鳴館貴婦人考』で、上流婦人たちの足跡をたどっていくと、「意外にも華やかと見た彼女たちのほとんどが、動乱の維新にどん底であえぎ、生死をさまよい、必死で()い上り、その後も懊悩(おうのう)、悲哀、転落を経験していたことを知って、やっと共感を覚えた」と告白しています。そしてこうも書いています。

     「鹿鳴館は日本の夜明けだったが、女たちの夜明けではない。長い、気の遠くなるほどの遠い道をさらに歩まなければ、その日はやってこなかったのである」

     近代の日本女性が男女同権や自由な恋愛を享受するまでには、実際、とても長い年月を要したのでした。

    【主な参考・引用文献】

    ▽近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』(講談社)▽ピエール・ロチ『秋の日本』(村上菊一郎・吉氷清訳、角川文庫)▽三島由紀夫『鹿鳴館』(新潮文庫)▽芥川龍之介『舞踏會』(現代日本文学全集26 筑摩書房)▽藤田省三『維新の精神』(みすず書房)▽磯田光一『鹿鳴館の系譜』(講談社文芸文庫)▽清水勲編『続ビゴー日本素描集』(岩波文庫)▽トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』(菅沼竜太郎訳、岩波文庫)▽坂本多加雄『明治国家の建設』(中公文庫)▽五百旗頭薫「条約改正外交」(井上寿一編『日本の外交 第1巻 外交史戦前編』、岩波書店)▽井上勝生『幕末・維新』(岩波新書)▽小宮一夫「条約改正問題―不平等条約の改正と国家の独立」(『明治史講義』【テーマ篇】ちくま新書)▽岩尾光代『姫君たちの明治維新』(文春新書)▽小沢健志監修『レンズが撮らえた幕末明治の女たち』(山川出版社)▽高校教科書『日本史B』(同)▽『国史大辞典』(吉川弘文館)

    (本文中の写真で出典がないものは、国立国会図書館ウェブサイトから)

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    2018年12月05日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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