<国会開設と憲法制定>第10回~伊藤博文、足軽から頂点に

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岩倉具視の死

岩倉具視
岩倉具視

 右大臣・岩倉具視(いわくらともみ)が1883(明治16)年7月20日、病気のため死去しました。

 岩倉の政治行動の軌跡をたどると、それは幕末維新史そのものです。

 異国船打払令が出された25(文政8)年、京都の下級公家に生まれまた岩倉は、58(安政5)年、日米修好通商条約の勅許に反対する、中・下級公家88人による「列参」(デモ)首謀者の一人として、朝廷政治にデビューしました。 

 「桜田門外の変」の後、将軍家茂(いえもち)への皇女和宮(かずのみや)降嫁(こうか)など公武合体策を推進しましたが、尊皇攘夷運動が高まる中、62年8月に失脚。洛中(らくちゅう)(京都の古くからの市街地)から追放され、洛北の岩倉村(現・京都市左京区)に蟄居(ちっきょ)しました。

岩倉具視幽棲旧宅(京都市左京区。2017年11月16日)=長沖真未撮影
岩倉具視幽棲旧宅(京都市左京区。2017年11月16日)=長沖真未撮影

 5年半後の68年1月、王政復古のクーデターの当日、岩倉は朝廷にカムバックします。

 王政復古の大号令には、「自今(今後)摂関、幕府等廃絶」という衝撃的な文字が躍っていました。

 歴史小説家・永井路子さんは著書『岩倉具視』で、摂関(摂政と関白)制度と幕府の廃絶という大事件を、「簡単な構図として眺めるならば、具視は摂関制度を、薩摩は幕府を崩壊させるべく手を組んだのだ。その結果の『王政復古』は、この二頭立ての、謀計(ぼうけい)(はかりごと)、譎詐(けっさ)(いつわりあざむくこと)によって完成したともいえる」と書いています。そして、9世紀以来続いてきた朝廷の摂関制度を打破した岩倉の「大業」に、もっと注目すべきだと強調しています。

 岩倉はまた、維新政府初の小御所(こごしょ)会議で、徳川慶喜(よしのぶ)の会議出席を主張する土佐の山内容堂を、持ち前の弁才でねじ伏せ、慶喜追放を譲らない薩摩藩倒幕派有利の情勢をつくりました。以後、岩倉は議定(ぎじょう)輔相(ほしょう)、右大臣と明治政府の中枢に座り続けます。

「絶対的な剛毅果断」

 岩倉自ら率いた新政府の米欧回覧使節団の帰国後に直面したのが征韓論争(73年)でした。岩倉は、西郷隆盛の進退問題に発展することを懸念して、西郷の対韓使節をいったん認めながら、最終段階では派遣を阻む大久保利通の側に立ちました。

 明治のジャーナリスト・池辺三山(いけべさんざん)は、岩倉を「ある時は絶対的な調和論をやるかと見れば、またその調和論の行詰まりには絶対的な剛毅果断(ごうきかだん)をみせる」(『明治維新三大政治家』)と評しています。この時の方向転換は、その後者の例でしょう。岩倉に「奸物(かんぶつ)」(悪知恵がはたらく人)の評がつきまとったのは、このへんに理由があったのかもしれません。

 池辺によると、岩倉の主義の第一は「王権回復主義」、第二は「国権の回復主義」で、「民権論、民政論はこの人の頭の中にはよほど乏しい」ものでした。実際、岩倉は、民権派の台頭に絶えず危機感を抱いています。

 明治14年政変に至る憲法制定論議でも、岩倉は、議院内閣制(政党内閣制)を採用するイギリス型憲法の導入を排し、プロイセン型立憲政体を選択しました。

 明治のリーダーで最年長者の一人だった岩倉には「年の功」がありました。とくに「バランス感覚とそれにもとづく漸進主義は、岩倉の政治行動に一貫する特質」と言えました。(佐藤誠三郎著『「死の跳躍」を越えて』)

 明治初期の節目、節目の大政局で、岩倉が下した究極の判断が、その都度、大勢を制したのは、岩倉の「和」重視の調停能力の高さと、政治勘の鋭さによるものと指摘されています。

伊藤、欧州から帰国

岩倉具視を見舞う明治天皇(左)
岩倉具視を見舞う明治天皇(左)

 1883年6月末、勅命により診察に訪れたドイツ人医師・ベルツから「お気の毒ですが、ご容体は今のところ絶望です」と告げられると、岩倉はこう応じました。

 「ありがとう。死ぬ前に是非とも遺言を伊藤に伝えておかねばならない。ベルリンにいる伊藤をすぐさま召還しよう。伊藤の帰朝まで、わしをもたすことはできるでしょうね?」(『ベルツの日記』)。

 この岩倉の望みは、かなえられませんでした。7月5日、岩倉邸を見舞いに訪れた明治天皇は、やせ衰えた岩倉の姿をみて「暗涙(あんるい)」を催し、同19日早朝に危篤の報を受けると、即刻、岩倉邸に赴き、今生の別れを告げました。(『明治天皇紀 第六』)

 岩倉死去から2週間が経った8月3日、憲法調査のためヨーロッパを訪問していた伊藤博文が1年半ぶりに帰国しました。伊藤は岩倉の16歳年下でした。明治政局を切り盛りしてきた主役の一人が去り、新しい主役の登場です。

 伊藤は、岩倉が進めていた皇室制度改革を引き継ぎ、84年3月、宮中に制度取調局を設置して責任者になります。伊藤は宮内卿も兼務し、まず、憲法制定の前提として必要な皇室・華族制度や、内閣・官僚制度の整備に着手することになります。

華族制度の再構築

 伊藤の華族制度改革は、国会開設を念頭に置いたものでした。「皇室の藩屏(はんぺい)(囲い、守護役)」たる「華族」を、民権派に対抗できる上院(貴族院)議員に充てようと考えました。

 しかし、それまで華族と称されてきた公卿や藩主(諸侯)は、政治的にはいかにも非力です。このため、明治維新で勲功のあった士族たちを新たに「華族」に追加し、華族制度を再構築することにしました。

84年7月に公布された華族令
84年7月に公布された華族令

 84年7月に公布された華族令は、旧公卿・諸侯の家格を基礎に「公・侯・伯・子・男」爵の五つのランクを設けました。

 公爵(こうしゃく)は、臣籍降下の皇族、摂関に任ぜられる家格の摂家(せっけ)、徳川宗家(そうけ)であり、極めて少数でした。侯爵(こうしゃく)は、摂家に次ぐ家柄の清華(せいが)家、徳川御三家(ごさんけ)、15万石以上の大藩主、琉球藩王。伯爵(はくしゃく)は、大納言に任ぜられることの多かった公家、徳川御三卿(ごさんきょう)、5万石以上の藩主でした。

 子爵(ししゃく)は、その他の公家と小藩主、男爵(だんしゃく)は維新後、華族に列せられた者と定めていました。

 これらとは別に「国家に偉勲(いくん)ある者」を公爵、「国家に勲功(くんこう)ある者」は勲功に応じて侯・伯・子・男の爵位が授けられることとしました。

 小田部雄次著『華族』によりますと、華族令発出時の総数は、新たに藩士らの「新華族」も加わって509家(公爵11、侯爵24、伯爵76、子爵324、男爵74)でした。

 旧藩士の身分で叙爵したのは計27人(家)。大山巌、川村純義、黒田清隆、西郷従道、寺島宗則、松方正義(以上、薩摩)、伊藤博文、井上馨、広沢金次郎=真臣(さねおみ)の遺子、山県有朋、山田顕義(以上、長州)、佐々木高行(土佐)、大木喬任(たかとう)(肥前)ら13人が伯爵に、樺山(かばやま)資紀(すけのり)(薩摩)ら12人が子爵になりました。故大久保利通と故木戸孝允の後嗣(こうし)(後継ぎ)は、それぞれ侯爵となり、新華族は、薩長の出身者が圧倒的多数を占めます。

設立当初、東京・神田にあった学習院の校舎
設立当初、東京・神田にあった学習院の校舎

 公卿や諸侯でも、偉勲によって、岩倉家の家督を継いだ具定(ともさだ)や、薩摩の島津忠義・久光、長州の毛利元徳(もとのり)らが公爵になりました。

 華族は、皇室と国家に忠誠を尽くすことを義務付けられる一方、さまざま特権がありました。世襲が認められ、公・侯爵は30歳に達すれば、貴族院の終身議員になれました。また、天皇や皇族の結婚相手となる資格を持つ一方、華族の子女は学習院、女子学習院に無試験で入学することができました。

 華族制度には、もちろん「四民平等に反する」といった批判がありましたが、日清・日露戦争後になると、軍人の叙爵者が増大し、大山、松方、伊藤、山県、桂太郎は最上位の公爵に上り詰めます。

 貴族院の半数の議員は、常に華族の出身が占め、貴族院はやがて反政党勢力として政界で力をもつようになります。明治末期から大正にかけては公爵・西園寺(さいおんじ)公望(きんもち)、昭和戦前期には公爵・近衛(このえ)文麿(ふみまろ)といった首相も登場しました。

 敗戦後、1947(昭和22)年の現憲法施行に伴い、華族制度は廃止され、華族889家が消滅します。

太政官制に限界

 伊藤は、帝室費や皇室財産を増加させるなど、宮中に配慮を示しつつ改革を進め、自らの影響力の浸透に努めました。その上で、伊藤は、立憲政体樹立に向けて、「宮中(皇室)と府中(内閣)の別」の原則を確立しようとしました。この原則とは、天皇側近による政策決定への容喙(ようかい)を排除することを意味しました。

 侍講(じこう)元田(もとだ)永孚(ながざね)らが、「宮中」で天皇に直接働きかけて影響力を行使していました。伊藤は、これが天皇と内閣の一体化を阻害し、「府中」の迅速な政策遂行を困難にするとみていたのです。(坂本一登著『伊藤博文と明治国家形成』)

 加えて、維新とともに設置された太政官(だじょうかん)制は、公家の実力者だった右大臣・岩倉具視の死をきっかけに、機能不全に陥るようになりました。

三条実美
三条実美

 73年に太政官内に設置された「内閣」に出席できたのは、太政大臣、左・右大臣と参議だけで、卿(各省長官)は出席できません。天皇への上奏権も太政大臣に限られ、大臣には皇族・公家しかなれませんでした。

 これでは士族出身の実力者は、政治的に手足を縛られているのも同然です。

 隣国の朝鮮は82年の壬午軍乱(じんごぐんらん)に続き、84年には甲申事変(こうしんじへん)が発生するなど不穏な情勢が続き、太政大臣・三条実美(さねとみ)の指導力に改めて疑問符がついていました。

初代内閣総理大臣

85年2月、清に派遣された伊藤博文。北京で撮影
85年2月、清に派遣された伊藤博文。北京で撮影

 85年5月、伊藤は、内閣制度の導入に向けて三条の説得を始めます。しかし、内閣制度が大臣辞任につながる三条をはじめ宮中は、逆に新たな右大臣による補佐体制を提案します。

 このため、伊藤は右大臣に黒田清隆を推薦しますが、黒田の起用には「徳識名望」の観点から明治天皇が難色を示し、黒田も就任を辞退しました。そこで伊藤の名も浮上しますが、伊藤は断固拒否します。

 綱引きの末、12月、三条が内閣制の官制改革案とともに、内閣総理大臣(首相)に伊藤を推薦する旨を上奏します。明治天皇が承認し、伊藤が日本初の内閣総理大臣(兼宮内相)に内定しました。武士階級最下位の「足軽(あしがる)」だった伊藤が、天皇は別にして最高の地位につくという革命的な人事でした。

 15年間、太政大臣を務めた三条は、宮中の内大臣に就任します。

 85年12月22日、内閣制度が正式に発足しました。

 第1次伊藤内閣の顔ぶれは、外務・井上馨、内務・山県有朋、大蔵・松方正義、陸軍・大山(いわお)、海軍・西郷従道、司法・山田顕義、文部・森有礼(ありのり)、農商務・谷干城(たてき)、逓信・榎本武揚(たけあき)でした。

国策の最高決定機関

 新設の内閣では、太政官制の太政・左・右大臣、参議、卿に代わって、内閣総理大臣と各省大臣が置かれ、宮内以外の諸大臣が閣議に出席。内閣を国策の最高決定機関として責任政治の体制が敷かれます。

 政府は85年2月、「内閣職権」(内閣設置法)の第1条で、「内閣総理大臣は各大臣の首班として機務(きむ)(機密に関する政務)を奏宣(そうせん)し、()(うけ)て大政の方向を指示し、行政各部を総督す」と定め、首相に非常に大きな権限を与えました。

 翌86年2月、法律・命令の形式を規定した「公文式(こうぶんしき)」で、法律・勅令への首相の副署を定め、首相がサインしなければ公式なものとならないことにしました。87年9月、伊藤は、天皇の内閣への臨御(出席)を首相の奏請した場合に限ることなどを天皇に願い入れ、了承を得ました。

 しかし、この首相権限の強大化は、井上毅らの巻き返しにあい、憲法制定後の「内閣官制」で権限が縮小されることになります。一方、官僚機構の整備も始まり、各省提出の法令審査を行う内閣法制局が新設されました。

帝国大学で官僚養成

 伊藤は帰国後、大学改革にも着手し、これを受けて森有礼文相は86年3月、「帝国大学令」を制定しました。

帝国大学
帝国大学

 西園寺公望の回想によりますと、82年、伊藤が憲法調査でフランスに滞在中、随行していた西園寺に「今後は薩長ばかりでなく、全国から万遍なく有能な人間を官吏に採用したい」と言いました。

 これに対して、西園寺は、「ドイツでもプロイセン出身者ばかりが官吏になる傾向を憂えたビスマルクが、ベルリンに帝国大学を建設、試験さえ通過すれば誰でも入学できる官吏養成所としたところ、立派な官吏が各方面から出た」という話をしました。伊藤は「非常によい案だ」と感心し、帰国後、行政を担う専門官僚を育成するため、これを実行に移しました。(水谷三公著『官僚の風貌』)

『憲法義解』の第19条に関する記述。1行目に「維新改革の美果」とある
『憲法義解』の第19条に関する記述。1行目に「維新改革の美果」とある

 77年に東京開成学校と東京医学校を併せて創設された東京大学は、帝国大学令により、大学院と法・医・工・文・理・農(90年新設)の六つの分科大学からなる総合大学(帝国大学)として発足します(97年に京都帝国大学の創設とともに東京帝国大学に改称)。

 89年に発布される帝国憲法は、第19条で「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ、(ひとし)ク文武官ニ任セラレ及其他(そのた)ノ公務ニ就クコトヲ得」とうたい、出自や門閥にかかわらず誰もが文武官(官僚、軍人)になれると規定します。

 伊藤は、憲法を逐条的に説明した著書『憲法義解(けんぽうぎかい)』で、この条文こそ「維新改革の美果(びか)」であると高唱しました。(清水唯一朗著『近代日本の官僚』)

 87年、官僚の資格任用制度が導入されます。93年に文官の任用資格を定めた文官任用令が公布され、94年には高等官の資格試験である第1回高等文官試験が実施されます。

【主な参考・引用文献】

▽坂本一登『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入』(講談社学術文庫)▽同『岩倉具視―幕末維新期の調停者』(日本史リブレット・山川出版社)▽西川誠『天皇の歴史7 明治天皇の大日本帝国』(講談社学術文庫)▽同「内閣制度の創設と皇室制度」(『明治史講義 テーマ篇』ちくま新書)▽山口輝臣編『はじめての明治史―東大駒場連続講義』(ちくまプリマー新書)▽佐藤誠三郎『「死の跳躍」を越えて―西洋の衝撃と日本』(千倉書房)▽池辺三山『明治維新 三大政治家―大久保・岩倉・伊藤論』(中公文庫)▽永井路子『岩倉具視―言葉の皮を剥きながら』(文春文庫)▽宮内庁『明治天皇紀 第六』(吉川弘文館)▽トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』(岩波文庫)▽小田部雄次『華族―近代日本貴族の虚像と実像』(中公新書)▽瀧井一博『伊藤博文』(中公新書)▽笠原英彦『明治天皇』(同)▽坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』(中公文庫)▽北岡伸一『日本政治史―外交と権力』(有斐閣)▽清水唯一朗『近代日本の官僚―維新官僚から学歴エリートへ』(中公新書)▽水谷三公『日本の近代13 官僚の風貌』(中公文庫)▽『詳説日本史B』(山川出版社)

(本文中の写真で、撮影者名のないものは国立国会図書館ウェブサイトから)

297069 1 「世界と日本」史 2019/01/23 05:20:00 2019/02/04 14:12:15 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190116-OYT8I50093-T.jpg?type=thumbnail

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