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「よみらくご」総合アドバイザー、演芸評論家の長井好弘さんが、演芸愛いっぱいのコラムをお届けします。
落語・講談・浪曲・諸芸――長井好弘’s eye
寄席に行けば、必ず高座に姿を見せる。寄席の名物と言われる人たちがいる。
何度見ても、高座でやることは同じである。繰り返し見続けていれば、そんなには笑えない。でも、また見たくなる。「
今年、「寄席にいるのが当たり前」という愛すべき人たちが、次々と高座から、いや人生という名の舞台から下りてしまった。
9月18日、漫才「ホームラン」のツッコミ役、勘太郎。65歳。
11月17日、落語の
11月19日、三味線漫談の柳家
悲しい知らせは本当に突然やってくる。みんな、「いるのが当然」の人たちだから、寄席で会えなくても、「今日はたまたまいなかった」と思っていた。ここ何年も寄席に出ていなかったなんて……。
ホームランの華やかさと、出塁にこだわる泥臭さと
ホームランの漫才を初めてみたのは、2006年の7月、池袋演芸場でのことだと古いメモ帳に記されていた。落語協会のHPに「06年4月、入会」とあるから、彼らが寄席に出始めてまもなくの頃だ。
結成が1982年というから、寄席デビューの時点でコンビ歴は24年。僕の第一印象も「知らないベテラン漫才がいきなり寄席に入ってきた」というものだった。
それにしても、彼らのネーミング・センスは尋常ではない。初代三波伸介の弟子だという小柄なボケ役が「たにし」で、小野ヤスシ門下のワイルドなツッコミ役が「勘太郎」。芸名がこれほど不思議なのに、コンビ名がなぜ、何の工夫もない「ホームラン」なのか。

勘太郎「俺は広島県安芸郡の出身なんですよ」
たにし「安芸郡って漢字で書ける?」
勘太郎「安芸郡というのは、安い芸……ほっとけ!」
大きな体に、ごっつい顔。どこからどう見ても怖そうな勘太郎が、本気で大声を上げる。それを相棒のたにしが「だからどうしたの?」という感じで受け流すので、勘太郎はますます怒り出す。これだけだと、ずいぶん荒っぽい漫才のようだが、ときおり勘太郎が見せる
たにし「(ゴルフの)石川遼君はスゴイですね。去年の獲得賞金が1億8千万円」
勘太郎「プロになって3年弱、まだ18歳ですよ」
たにし「(客席に向かって声を張り)皆さん、(18歳の時)何やってたんですか!」
勘太郎「(さらに大声で)お前は何やってたんだ!」
勘太郎「あなたは病めるときも、貧困の時も、ガスを止められたときも…、最後に水道が止められたんだよな?」
たにし「ハイそうです、神父さん。私、明日が見えないんですけど」
勘太郎「見えないでしょう。電気も止められたからね」
もともと漫才の「型」ができていたホームランは、寄席に出て面白さの飛距離をぐんぐんと伸ばした。長打が難しそうなときは、ボテボテのゴロでも振り逃げでも、とにかく塁に出る。おしゃれなスタンドカラーの衣装を身につけても、どこか、あか抜けない。そんな泥臭い二人がお江戸の寄席で光を放った。
2011年の東日本大震災の時、勘太郎の自宅マンションが液状化現象に見舞われた。水道が使用不能となり、近所の公園の水道で体を洗い、寄席に出勤した。「俺だって被災者なのに、こんな思いをしながら、何で毎日、人を笑わせなきゃならないんだと考えちゃって、何が何だかわからなくなった」と、後になって本人から聞いた。「漫才」「笑い」というものに生真面目に取り組んできた男の素顔を見た気がした。
「お世話になりました」ではなく「お世話しました」
川柳川柳の高座からは、いろいろなことを学んだ。その中で一番、身についたのは、彼の十八番ネタ「ガーコン」の中で歌う軍歌の数々である。

「滅びたり~、滅びたり~、敵、東洋艦隊は~」(英国東洋艦隊潰滅)
「銀翼連ねて、南の前線」(ラバウル海軍航空隊)
「朝だ、夜明けだ~」(月月火水木金金)
どれも元歌は聞いたことがないのに、川柳の高座で覚えて、歌詞など見なくても歌えるようになった。
高座にかけるネタの9割は、「川柳版・歌でつづる昭和史」ともいうべき新作落語「ガーコン」だった。寄席のネタ帳には「パフィーで甲子園」「歌は世につれ」なんてネタも書かれているが、これらは「ガーコン」をサゲまでやらず、漫談風に途中で終わってしまった時の題名であり、中身はやっぱり「ガーコン」なのだった。 (注1)
文字通りの「寄席の名物男」だったので、川柳の死を悼む声が方々から上がっている。そういう追悼のコメントは「○○師匠にはたいへんお世話になりました」というのが普通だが、川柳に限っては圧倒的に「大変お世話しました」なのだ。もちろん、皆、酒席で大トラになり、帰りの電車の中で口ラッパを吹きまくる迷惑男を介抱させられたのである。
川柳は観客に対しても容赦がなかった。自分がウケないと「こんなに面白いんだから、さっさと笑えよ!」などと無理な要求をするのである。
「じっと座っていれば、いろんな芸人が出てきて笑わせてくれるだろうという、そんな甘えた気持ちは捨てなさいよ」
客席をじろり見回したと思ったら、ガラリ表情が変わって、こぼれんばかりの笑顔になる。
「では、またかとお思いでしょうが(場内爆笑、拍手)。客は飽きたって、こっちは飽きないんだから」
彼らに「川柳はどういう人か」と問えば、酒乱、わがまま、ずぼら、ケチなんて言葉がぞろぞろと出てくるだろう。師匠の六代目三遊亭円生をはじめ、先輩、後輩、寄席関係者から観客にまで、あらゆるところに迷惑をかけ続けた。 (注2) それでも不思議に、皆に愛された。いつだったか、楽屋の前座仲間で落語家の人気投票をやったら、ベスト1もワースト1も川柳だったという。
落語の中にも川柳が登場する。
「これは何て酒だい? やたら頭にくるじゃないか。えっ、清酒川柳川柳?」(柳亭左龍「鰻の幇間」)
「(特別なお茶を
以前、落語協会会長である柳亭市馬が、川柳の寄席の代演に出たことがあった。
「浅草でしたね。誰の代演かわからないので前座に聞いたら『川柳師匠です』って。川柳師匠は、自分の親よりも年上で、芸歴もまるで違うんですよ。まあ、芸風が似てると言われると、そうかもしれないと思いますが」
80歳を過ぎても軍歌の高音部がよく伸びた「歌う怪人」川柳の代演に、「歌う本格派」の市馬が出てくるなら、寄席の常連は「なるほど」と喝采を送ったことだろう。
「平蔵」にハマってしまうと禁断症状に
柳家紫文は、歌舞伎座で常磐津の
「

あの「鬼平犯科帳」の舞台を借りてのミステリアスな導入部。何が始まるのかと思えば、一転して「赤帽」と「あたぼう」をかけたベタなダジャレオチになる。緊張と緩和のさじ加減(三味線だからバチ加減か)が恐ろしくもバカバカしい。
紫文は、水商売の女とすれ違う相手を次々と替え、延々と「長谷川平蔵」を繰り返すのである。
女の呼びかけが「
「葬儀屋さん、大丈夫?」だったら、「ちょっと考え事をしてたもんですから。いえね、友達から大金を貸してくれって頼まれたんですよ。(ここで唄になり)貸そう(火葬)か、どそう(土葬)か考え中~」になる。
あまりに独創的なスタイルなので、紫文の芸は「好き」と「嫌い」がはっきり分かれた。それでも一度、「長谷川平蔵」にハマってしまうと、「もっと聴かせて」「今度は誰が崩れ落ちるのか」と禁断症状のようになってしまう。観客ばかりではなく、楽屋連中にも「平蔵」ファンは多く、「俺が考えたのも使ってくれる?」と新しいネタを提供してくる仲間までいたらしい。
そういうわけで、橋の上ですれ違う相手は、ありとあらゆる職種に及んだ。
「一人の横綱が崩れ落ちた。『横綱、怪我はなくって?』『だいぶ酔ってるもんですから』『飲むとどうなるんです?』『(歌になって)もちろん~、私は~、吐くほう(白鵬)です』」
「一日の仕事を終えたであろう一人の宇宙人が崩れ落ちた。『お怪我は?』『(喉ボトケを手でたたいて)オ、カ、ゲ、サ、マ、デ~』『どこへ行くの?』『相撲協会へ。お願いです、星を売ったり買ったりしないでください!』」
一日の仕事を終えた宇宙人って……。
ごくまれに、紫文が「平蔵ばかりやっていても、ご退屈でしょうから」と言い出すことがあった。
「今日はいつもと違うネタを」
何が始まるのかと、客が身を乗り出したところに、チチチンと三味線がなり、「江戸町奉行の大岡越前守が、両国橋のたもとを歩いていると……」。
うわあ、名前が変わっただけで、やっぱり橋のたもとで男と女がすれ違うのだった。
勘太郎は早すぎる。川柳は100歳まで死なないと思っていた。紫文は「平蔵」でギネスを狙うまで頑張ってほしかった。今年は楽屋からの
悲しいけど、何か書いておかなければ。僕らが彼らの芸と人について一番長く論じることができるのは、追悼原稿を書く時なのだから。
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