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「よみらくご」総合アドバイザー、演芸評論家の長井好弘さんが、演芸愛いっぱいのコラムをお届けします。
落語・講談・浪曲・諸芸――長井好弘’s eye
穏やかに晴れた5月10日、東京のお江戸日本橋亭で「講談協会・日本講談協会 両派合同講談会」が開かれた。
両協会会長、人間国宝・神田松鯉と売れっ子神田伯山の師弟など、実力者、人気者が揃う。さらに女流義太夫の人間国宝・竹本駒之助が特別ゲストという、豪華すぎる顔ぶれだった。
前座見習いを含めても100人に届かない東京の講談師が、1991年以来、31年も二つの団体に分かれて活動している。それ以前にも、何度も分裂と合同が繰り返された。いちいち原因を探ることにあまり意味はない。ただ、「先生」と呼ばれる講談師は皆プライドが高く、分裂時の当事者はたいてい仲が悪かったと伝えられている。

ところが、昨年10月14日、両協会の幹部や人気者が出演する「泉岳寺講談会」が、赤穂義士の聖地、高輪・泉岳寺で催された。「分裂以来、30年ぶりの共催」をうたい、開演前には、講談協会の宝井琴梅会長と日本講談協会の神田紅会長による「調印式」まで行われた。
何がきっかけになったのか。二ツ目だった松之丞時代に人気が爆発し、真打に昇進しても快進撃が続く神田伯山は常に「講談界全体のため」を考えながら、さまざまな企画を打ち出してきた。それだけではないのだろうが、伯山の努力やそれに呼応する動きが次第に講談の周辺に浸透し、「両協会共催の会」のような試みが受け入れられる土壌が徐々に育まれていったのだろう。
当コラムでも、この「歴史的な会」の様子を伝え、こんな考えを記している。
「令和の現在、講釈師は、本牧亭を知らず、協会分裂の経緯も知らぬ若手の方が多くなった。長い長い低迷のあと、ようやく光があたってきた講談が今、二つの団体に分かれる意味がどれだけあるのか。ただ、むやみに統一を急いだところで、『結局、合併しても何も変わらなかった』ということになりかねない。何かが変わるためには、かつての本牧亭のようなホームグラウンドが必要になる。泉岳寺講談会の始動と継続は、講談に関わる人々に、いろいろな可能性を考えるきっかけを与えるはずだ」
今回の「合同講談会」も、そんな「可能性」の一つである。泉岳寺と違うのは、この会が永谷商事の若旦那(三代目)、押川光範氏のプロデュースであるということだ。「お江戸上野広小路亭」「お江戸日本橋亭」などを運営する永谷商事は、これまでも積極的に講談師たちに公演の場を提供してきた。その演芸好きな若旦那が「合同講談会」を企画したということに、大きな意義がある。
寄席側の提案によるこの会が定着すれば、いつかはそれが「両協会合同」「講談専門の寄席=釈場の新設」に結びつくはず――。講談の演者も関係者も観客も、誰もが「夢」を見始めている。
「呉越同舟」まずは成功、光明も見えた
コロナ禍を考えて定員を絞り込んだ60席は前売りで完売だった。
<両派合同講談会>
神田伊織 「溝口半之丞」
一龍斎貞鏡 「山内一豊・出世の馬揃え」
神田伯山 「大名花屋」
一龍斎貞橘 「本能寺の変」
神田紅 「髪結新三」
仲入休憩
琴梅、紅 「両会長によるトーク」
神田松鯉 「太田
竹本駒之助・鶴澤津賀花 「殿中松の廊下」
宝井琴梅 「雪の夜話」
華やかな出演者による、多彩な演目の数々。いわゆる「ご祝儀出演」ではなく、皆がいつもどおりの力演を見せてくれた。
伯山の出番の冒頭、今やYouTuberとして知られる落語家の桂米助がカメラを持って乱入。場内爆笑だ。

「米助師匠に取り上げられて本当にうれしいんですが、アポなしで来られたので、楽屋の皆がびっくりしてます」
仲入休憩後は、出演者全員が高座に出て「撮影タイム」。スマホやデジカメを構えて、観客は大はしゃぎだ。「これを色々なところで配信してくれれば」と出演者たち。続く会長同士のトーク(司会・宝井琴調)でも「これ1回ではなく、今後、何回も続けることで、何らかの成果が出るのでしょう」ということで意見が一致。「我々も頑張るから、あなたもしっかり!」と、途中からトークに加わった若旦那に、厳しくも優しいエールが送られた。
まず初回は大成功。もちろん、成果を考えるのは2回目以降のことだ。安心はできないが、前方に明かりが見えた気がする。
没後1年、端正な高座がしのばれる“若殿様”
それから5日後の5月15日、八代目一龍斎貞山の「一周忌追善講談会」が四谷の紀尾井小ホールで催された。

貞山は一龍斎では最高の名跡。代々、名人上手が続いている。八代目は、「お化けの貞山」で知られた七代目貞山の実子であり、世話講談の名手・六代目神田伯龍を義父にもつ講談界のプリンスだった。
「昔の本牧亭で神田伯梅時代の若き貞山さんを初めて見たときは、髪は
長く心臓病に苦しんでいたことを悟らせぬ精力的な高座ぶり。
(注1)
だが、昨年4月15日、銀座公民館で「日蓮聖人御一代記」を読んだ後は、立ち上がれず。同月23日、らくごカフェの独演会で「秋色桜」「左甚五郎・水
もう、一周忌になるのか――。
<一龍斎貞山一周忌追善講談会>
神田伊織 「五条の橋」
一龍斎貞弥 「大岡政談・地蔵裁き」
宝井琴調 「寛永三馬術・出世の春駒」
一龍斎貞花 「八百蔵吉五郎」
仲入休憩
追悼口上(舞台下手から貞弥、琴調、貞鏡、貞花、正楽)
林家正楽 「紙切り」
一龍斎貞鏡 「義士銘々伝・神崎詫び証文」
仲入休憩が終わって、場内暗転。貞山得意の「神崎詫び証文」の録音がしばし流れた。やがて再び明るくなると、高座に貞山ゆかりの出演者が並んでいた。腕っこきの講談師たちが、生真面目な高座ぶりとはちょっと違う、普段着の貞山を浮き彫りにしていく。
講談の未来へ…父である師匠への思いを胸に独り立ち

「これ、貞山さんの着物。形見分けでいただきました。(急に涙声で)こんなんじゃ足りませんよ。
「いつも私を頼ってくれて。私より八つも年下なのに先に逝くなんてね。今度は貞鏡が私を頼ってくれました。これも貞山さんの着物ですよ」(師匠を亡くした貞鏡を預かる貞花)
「地域寄席と学校寄席で、貞山さん、貞鏡さんとよくご一緒しました。貞山さんは、もうね、本当におぼっちゃん。私や琴調さんとは元から違うのよ(正楽をにらむ琴調)」(この日、鮮やかに「貞山ぼっちゃん」の似顔絵を切った正楽)
「私は日本一の大バカ娘で、師匠の教えがなかなか身に付かず。カラオケで桂銀淑の『すずめの涙』を歌ったとき『うめえな』と。褒められたのはこの時だけでした。最後の高座の後、立てなくなって病院へ担ぎ込まれた。その時の先生に『こんな(ボロボロの)心臓で講談を1時間以上やったなんて信じられない』と言われました。文字どおり、命を削って高座に上がっていたんだなと……(あとは言葉にならず)」(口上で泣いたり笑ったりの貞鏡)
トリの貞鏡は、口上の前に流れた「神崎詫び証文」に挑んだ。
「俺が馬殺しの
名門の御曹司、端正な芸、古風なたたずまい。講談協会の「顔」として、もうひと働きもふた働きも期待されていた貞山の死は、講談界の大きな損失だ。だが、その貞山をしのびながらも、この日の出演者たち、そして観客の目は、来年春の真打昇進が決まっている娘の貞鏡に注がれていた。
3人目の子供の出産直前に父であり、師匠である貞山の死に向き合わねばならなかった貞鏡は、しばらく高座に上がることができなかった。だが、今年になって、「一龍斎貞山家」のお家芸である「赤穂義士伝」と「軍談」を磨くための勉強会を次々と立ち上げた。貞鏡は、来年の真打昇進を見据え、いつかは継がなければならない「九代目貞山」という高い山を遠くに望みながら、歩き始めたのだ。
前途洋々か、
伯山の奮闘、永谷の本気、貞鏡の自立。動き出した講談にさらなるパワーを注ぐためには、令和の講談師全員の「合同」が必要となる。
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