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    “日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-【愛媛・広島】

     【概要】戦国時代、宣教師ルイス・フロイスをして“日本最大の海賊”と言わしめた「村上海賊」“MurakamiKAIZOKU”。理不尽に船を襲い、金品を略奪する「海賊」(パイレーツ)とは対照的に、村上海賊は掟に従って航海の安全を保障し、瀬戸内海の交易・流通の秩序を支える海上活動を生業とした。その本拠地「 芸予諸島 ( げいよしょとう ) 」には、活動拠点として築いた「 海城 ( うみじろ ) 」群など、海賊たちの記憶が色濃く残っている。 尾道 ( おのみち ) 今治 ( いまばり ) をつなぐ芸予諸島をゆけば、急流が渦巻くこの地の利を活かし、中世の瀬戸内海航路を支配した村上海賊の生きた姿を現代において体感できる。
    <2016年4月認定。以下は、認定申請書類から引用>

    瀬戸内海航路を掌握した「村上海賊」

    • 白滝山(五百羅漢像)
      白滝山(五百羅漢像)

     1586年、堺を出港し、瀬戸内海を西へ航海していた宣教師ルイス・フロイスは、芸予諸島(げいよしょとう)のある島に近づいた時のことを次のように記している。「その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や地所や船舶を有し」、「強大な勢力を有していた」(『完訳フロイス日本史』)、と。フロイスをして「日本最大」と言わしめた海賊。それが「村上海賊」である。

     瀬戸内海を東西に分断するかのように、島々が南北に密集して連なる「芸予諸島」。一見、穏やかに見える海況だが、狭い海峡(瀬戸)にいざ船を進めると、大潮時には高低差3m以上にもなる潮の満ち干きや、最大10ノット(時速約18キロメートル)の潮流が容赦なく襲う。古来より航海者を悩ませてきた海の難所である。「船に乗るより潮に乗れ」。この地域に古くから受け継がれる漁師たちの言葉がそれを物語る。

     村上海賊は、このような芸予諸島の因島(いんのしま)(広島県尾道市)、能島(のしま)(愛媛県今治市)、来島(くるしま)(同)に本拠をおいた三家からなる。同じ村上姓を名乗る三家は強い同族意識を持ち、それぞれの領内に多くの「海城(うみじろ)」を築いた。フロイスが見た「大きい城」は、これらの海城である。

    • 瓢箪島
      瓢箪島

     因島村上氏は余崎(よざき)城、美可崎(みかざき)城、長崎(ながさき)城、青木(あおき)城など、沿岸部に海城を築き、安芸・備後国の陸地部に沿った航路(安芸(あき)地乗(じの)り)を押さえた。能島村上氏は能島(のしま)城を中心に芸予諸島の中央を通過する最短航路(沖乗(おきの)り)を、来島村上氏は来島(くるしま)城を中心に四国側の航路(伊予地乗り)を押さえ、三家が連携をして芸予諸島の全域を掌握した。

     多くの海城の岩礁には、高低差のある潮の満ち引きに影響されず、いつでも船が係留できるように、陸から海に向かって柱が立ち並んでいた。また海岸部を埋め立てて平坦面を造成し、荷揚げや海産物の加工場、造船や修理場に利用されていた。海城には海賊たちが住み込み、海戦に備える一方で、そこを拠点として多様な海上活動に従事したのである。さらに能島城や来島城などは、その対岸に「水場(みずば)」と呼ばれる海城に水や物資を供給する場を持ち、その一帯を城下町として生活の本拠としていた。航路に面した前線の活動基地である「海城」と、その対岸にある集落が一体となって、村上海賊の本拠地が形成された。南北に連なる芸予諸島の地の利を最大限に活かし、「海城」を航路の要衝に配置することで「海の関所」とし、瀬戸内海の東西交通を支配したのである。

    2017年03月31日 11時55分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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