人口2千人の離島に残る活版印刷所、「色気感じる」活字に全国から注文
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長崎県の五島列島北部にある人口約2000人の


島の南側にある小値賀港から徒歩で約10分。活版印刷所「
「活版には五感に訴えかける表情がある。何とも言えない、色気を感じるんです」。印刷所の4代目、横山桃子さん(32)が言う。
15世紀にドイツで発明された活版印刷を小値賀島で始めたのは、横山さんの曽祖父。石油や肥料の販売などを行う総合商社の一事業だったが、2代目の祖父・半一さんが「印刷業は文化事業だ」として活版印刷を主力とした。
島内の広告や連絡船の乗船券、商店街のチラシ、年賀状など様々な注文が来た。戦中戦後は、空襲や原爆で多くの印刷店が被災した長崎市や佐世保市からも名刺や映画のチケットなどの仕事が舞い込んだ。
「職人が食事をとる暇もなく、おにぎりを手に持って仕事をしていたと、母は後年も話していた。活気のある時代だった」。3代目で横山さんの父・弘蔵さん(69)はそう話す。
だが、1980年代頃には版面が平らで大量印刷に適したオフセット印刷が主流となり、売り上げは右肩下がりに。全国の同業者が次々と店を畳んだ。弘蔵さん自身、「自分の代で店を閉めよう」と考えていた。
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そんななか、長女の横山さんが「店を継ぐ」と言ったのは約10年前。岡山県の大学でデザインを学ぶ中で活版印刷が貴重な技術と知り、「大好きなふるさとで伝統を守りたい」と思いが膨らんだ。弘蔵さんは当初反対したが熱意に押され、横山さんは2012年から晋弘舎で一緒に働き始めた。
横山さんの現在の主力商品は、島外向けの名刺。「デザインに温かみがある」「活版ならではの凹凸の手触りがいい」として、口コミで全国から注文が来るようになった。ピーナツペーストの商品ラベルやコーヒーのパッケージなど他業種との連携も積極的に進め、18年2月には新たな工房「OJIKAPPAN」を設立した。
「作業の効率化が叫ばれる時代だが、人の手が関わって血が通った文字が、逆に新鮮に感じたのではないでしょうか」と横山さん。
来年2月頃にはオランダのデザイナーと共同制作したポストカードを販売予定だ。横山さんは「離島からでも世界に発信することができる。大好きな活版印刷と小値賀の魅力を後世に受け継ぎたい」と話す。
新聞誕生に一役
活版印刷は、国内初の日本語日刊紙「横浜毎日新聞」の誕生にも関係している。
日本新聞博物館(横浜市)によると、当時の神奈川県知事が新聞の必要性を呼びかけ、江戸幕府でオランダ通詞を務め、長崎で日本語の鋳造活字を初めて実用化した本木昌造(1824~75年)に相談。本木の弟子が横浜に派遣され、1871年に同新聞が横浜で創刊された。
同館によると、活版印刷は1980年代頃まで新聞社でも使われていたが、徐々に活字を使わないオフセット印刷に移行していったという。