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    【外交編】G20へ「麻生・浅川」奔走

    外交編(1)

    リーマン10年、揺らぐ結束

    • 2008年11月の金融サミットには当時の麻生首相が出席。左端は首相秘書官を務めていた浅川氏(ワシントンで)
      2008年11月の金融サミットには当時の麻生首相が出席。左端は首相秘書官を務めていた浅川氏(ワシントンで)

     世界の金融市場を大混乱に陥れた2008年9月15日のリーマン・ショックから、10年を迎えた。この間、世界経済の力学は変化し続けた。今、各国は「米国第一主義」を振りかざすトランプ政権への対応に苦慮している。国際金融の舞台で外交を担う財務省は、世界とどう向き合ってきたのか。その軌跡を追い、課題を探る。(敬称略)

     08年11月、米ワシントン。国際協調の枠組みが一変したことを象徴する会議が開かれた。中国など新興国も連なるG20(主要20か国・地域)。その首脳による「金融サミット」だ。

     「大きくなっていた新興国を取り込む必要があった」。当時、財務省の「国際担当次官」である財務官だった篠原尚之(1975年入省)は回想する。米証券大手リーマン・ブラザーズの経営破綻が引き起こした金融危機は、米国を軸に日欧が結束してきたG7(先進7か国)だけでは対処不能だった。

     歴史の転換点となったサミット。97年に金融危機を経験済みの麻生太郎首相は出席者でただ一人、提言ペーパーを各首脳に配り、G20の結束とともに「短期」「中期」「長期」に分けた危機の克服を唱えた。金融機関に対する公的資金の資本注入、国際通貨基金(IMF)の機能強化、ドル基軸体制の支援――。

     麻生の傍らには、財務省で国際畑を歩み、首相秘書官に送り出された浅川雅嗣(81年)が控えていた。

     それから10年。国際交渉の総指揮を執る財務官に上り詰めた浅川は、財務相になった麻生の側近としてなお仕える。直面しているのは、危機に際し、麻生―浅川ラインで結束強化に貢献したG20の「漂流」だ。

     危機が遠のけば結束は緩む。そもそもG20はまとまりづらい。年に数回開く財務相・中央銀行総裁会議には国際機関の幹部らも加わり、総勢50人を超す。

     「あまりにも利害が違う人が集まり過ぎている」(国際金融筋)。出席者は自らの主張に固執し、世界経済の課題解決に向けた実りある議論はほとんど聞こえてこない。金融危機が収まった今、G20の枠組み自体への懐疑論は絶えない。

     「世界的な危機のリスクがなくなったわけじゃない。どういう危機が起きるか分からないからこそ、いろんな仕掛けが必要なんだ」

     G20の現状に対する浅川の危機感は強い。頼りにできるのは、長年かけて醸成してきた米財務省との信頼関係だ。

     浅川は国際会議の度に必ず、マルパス米財務次官(国際問題担当)と個別での話し合いの場を設ける。マルパスから、ファーストネームで、「マサ」と呼ばれるほど2人は蜜月だ。

     だが、貿易赤字の削減意欲をむき出しにするトランプ米大統領の外交戦略が日米の共同歩調を阻む。

     麻生とペンス米副大統領による「日米経済対話」はいつしか棚上げされ、対日強硬派のライトハイザー米通商代表部(USTR)代表と茂木敏充経済再生相による協議に取って代わられた。トランプは輸入車の関税引き上げをちらつかせる。日本としては、米国と歩調を合わせてG20に結束を促すことは難しい。

     国際機関の活用も岐路に立つ。財務省はIMFや経済協力開発機構(OECD)などの幹部ポストを「指定席」として確保し、財務官経験者を送り込んで交渉力を高めてきた。ところが、中国も11年、IMFの副専務理事ポストを初めて射止め、日本と肩を並べた。

     アジアの開発支援では、中国の主導で16年に開業したアジアインフラ投資銀行(AIIB)が、日本銀行総裁の黒田東彦(はるひこ)(67年)、中尾武彦(78年)ら財務官OBがトップに就いてきたアジア開発銀行(ADB)を脅かしつつある。

     日本は来年、G20の議長国を務める。その準備を進める国際機構課長には、浅川の信頼が厚い緒方健太郎(92年)が就いた。

     トランプ政権によって遠心力が働くG20。その結束を日本が主導して取り戻せるのか。異例の財務官在任4年目となった浅川と麻生の2人が再び奔走する。

    Q 国際金融協調、どう影響 A プラザ合意、円高進む

     Q 国際金融での協調の歴史は。

     A 第2次世界大戦後、連合国の主導で国際通貨基金(IMF)と世界銀行を中心とする「ブレトンウッズ体制」が本格始動した。米ドルを基軸通貨とし、為替は固定相場制だった。1971年8月、米国が金とドルの交換を停止した「ニクソン・ショック」を境にこの体制は終わり、各国は変動相場制へ移行した。

     75年、先進国首脳が集まる1回目のサミットがフランスで開催され、7か国(G7)が世界経済の安定や秩序づくりを主導する枠組みが2008年のリーマン・ショックまで続いた。

     

     Q 特に日本経済への影響が大きかった協調は。

     A 1985年9月、日米英仏と西独の先進5か国がドル高是正に向けて一致した「プラザ合意」だ。会合場所のニューヨークのプラザホテルが名称の由来となった。1ドル=240円程度だった円相場は、86年1月には1ドル=200円を割るまで円高が進んだ。

     会合は秘密裏に開かれ、終了後に突然発表された合意に世界は驚いた。竹下登蔵相は、成田空港近くのゴルフ場でのプレーを抜け出し、ゴルフウェアのまま空港に向かったという隠密行動のエピソードが残っている。

      インサイド財務省 外交編(2)はこちら

    2018年09月19日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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