またもアフガニスタンを見捨てるのか

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調査研究本部主任研究員 永田和男

 2001年の同時テロ後から続くアフガニスタン戦争の終結を目指す米トランプ政権は昨年、反政府武装勢力タリバンとの和平協議に乗り出した。だが、今年9月に交渉代表が「基本合意に達した」と明らかにした途端、トランプ大統領自身が「協議を打ち切る」と宣言した。紛争と混乱に明け暮れた国を自立、安定させる道筋は見いだせないままであり、日本を含む国際社会が取り組んできた国家再建を中途半端に打ち切り、アフガンを再びテロの温床にするようなことがあってはならない。

幻の「キャンプデービッド合意」

 アフガニスタンを巡っては19年9月、数々の注目される動きがあった。米政府の和平担当特別代表としてタリバンとの和平協議に当たるザルメイ・ハリルザド氏は2日、アフガンのテレビ番組で、昨年10月からカタールの首都ドーハで9回の会合を積み重ねた末に基本合意に達したと語った。

 基本合意の柱は、(1)現在1万4000人の駐留米軍を4か月半で5400人程度削減して8600人に縮小する(2)タリバンは国際テロ組織と絶縁する(3)タリバンはアフガニスタン政府と和平交渉を始める(4)タリバンとアフガン政府は即時停戦する――の4点である。

 ところがトランプ大統領は7日に自身のツイッターで、アフガニスタンからタリバンの指導者らとガニ大統領を翌8日に招き、ワシントン近郊の米大統領山荘キャンプデービッドで両者と個別に会談する極秘計画があったことを明らかにした。そのうえで、「(アフガニスタンの首都)カブールで(5日に)テロ攻撃があり、米軍の偉大な兵士1人に加え11人の人々が殺害された。私は直ちに(キャンプデービッドでの)会合を中止し、和平協議を打ち切った」と発表した。

 キャンプデービッドは1978年9月に当時のカーター大統領の仲介でエジプトとイスラエルが画期的な和平合意に達した歴史の舞台だ。今回の会合が実現していれば、タリバンとアフガン政府のトップを仲介して和平を誓わせるトランプ版「キャンプデービッド合意」を狙っていた可能性もある。だが、この地はアフガン絡みでは、2001年9月11日の同時テロ後最初の週末にブッシュ(子)政権の高官たちが集結し、国際テロ組織アル・カーイダと当時のタリバン政権打倒を目指す軍事侵攻を話し合った因縁の場所でもある。そこへ、今も敵対するタリバンの幹部を、しかも「9・11」が今年も巡ってくる時期に招こうとしていたことは極めて唐突で、政権の内外で物議を醸した。10日には、かねて大統領との対立が目立ち、タリバンとの協議にも懐疑的だったジョン・ボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)の解任が発表された。

 トランプ氏による協議打ち切り宣言にタリバン側は反発し、9月23日にノルウェーで行う予定だったアフガン政府との和平協議をやめると発表。米軍、タリバンの双方とも相手への攻撃強化の方針を打ち出した。

 タリバンは9月28日のアフガン大統領選挙妨害を早くから打ち出し、投票日には各地でテロが相次いで死者や負傷者も数多く出た。治安の悪化を見て投票を見送った有権者も多く、選挙管理委員会によると投票率は14年の前回大統領選の54・9%を大きく下回る20%台にとどまる見通しだ。

 和平協議は「死んだ」とまで語ったトランプ氏だが、昨年は北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長との初の首脳会談で、開催の直前にいったん「中止」を表明しながら結局会談を実現している。今回もタリバンに強気の態度を見せることで妥協を迫りやすい状況を作り、交渉再開の機会を探るのではないか、という見方も出た(注1)。10月初めにはハリルザド特別代表がパキスタンでタリバン代表団と会談したと報じられており、協議再開の可能性を話し合った模様だ。

タリバンを信用できるか

 トランプ氏は米兵が犠牲となった9月5日のテロでタリバンが犯行声明を出したことを協議打ち切りの理由に挙げた。だが、報じられたタリバンとの「基本合意」の評判が良くなかったことも事実だ。

 交渉担当のハリルザド特別代表の説明によれば、駐留米軍の規模は8600人とほぼトランプ政権発足時の水準まで縮小されるが、見返りとなるアル・カーイダとタリバンの絶縁がどのように担保されるのかは明確に示されなかった。基本合意の内容が報じられるとただちに、ジョン・ネグロポンテ元国家情報長官ら01年以降に駐アフガン大使などを務めた9人の元米政府高官が連名で声明を発表し、タリバンの和平への取り組みが明らかでないのに拙速な米軍撤収を進めれば「全面的な内戦に逆戻りする可能性もある」と厳しく警告した(注2)。

 9人の声明は、アフガニスタンが89年のソ連軍撤収後に武装勢力の割拠する内戦状態に陥る中からタリバンが台頭した歴史に触れて、「タリバンの支配下で苦杯をなめた記憶を持つ勢力は、死にものぐるいで戦うだろう」とも指摘。武装勢力やテロ組織ににらみをきかせてきた米軍の撤収で力の真空が生まれれば、タリバンと敵対勢力の激しい衝突は避けられないだろうと警告した。

 日本政府筋も「基本合意」の報道があった直後に「(米・タリバン間の)合意があるなら和平への一歩として歓迎したいが、それがタリバンとアフガン政府との対話に結びついて持続的な和平実現になるのか。そもそもタリバン自体、一枚岩で停戦や和平協議に臨んでいるのか」との疑念を示し、タリバンが合意相手として信用できるのかは慎重に見極める必要があると指摘していた。

アフガニスタンで輸送ヘリに乗り込む米軍部隊(2019年1月15日撮影、ロイター)
アフガニスタンで輸送ヘリに乗り込む米軍部隊(2019年1月15日撮影、ロイター)

 トランプ氏は大統領選で、米史上最長の戦争となっていたアフガニスタンからの撤収を主張した。しかし、就任後の17年8月に発表したアフガン新戦略では、タリバンやイスラム過激派組織「イスラム国」によるテロの激化を受け、当時8400人規模まで縮小していた駐留米軍を増派する方針を示した。その際、「米国民は勝利なき戦争に疲れ切っている」「私の直感では撤退だった」などと語って、増派が不本意なことをにじませていた。

 増派後もタリバンの攻勢は収まらず治安が改善しないため、拒み続けてきたタリバンとの直接協議の要求を受け入れることで局面打開を探ることを余儀なくされた形だ。タリバンとすれば、米国と直接交渉して駐留軍の撤退を勝ち取れば、アフガン政府や他の武装勢力に対しても強い立場を握ることができる。

 アフガニスタンには、アル・カーイダ、「イスラム国」などのテロ組織のほかに、20前後の反政府武装勢力が活動しているが、かつてアフガンのほぼ全土を支配し、今またかなりの支配地域を奪取したタリバンが米軍の主要な敵であることは間違いない。タリバンは01年の米軍侵攻後はパキスタンに逃れて態勢立て直しを図り、現在は4万~6万人の戦闘要員がいるとされる。

 対テロ戦争専門の米ニュースサイト「ロングウォージャーナル」の推計では、今年10月初め現在アフガニスタン国内で南部や中部の農村地帯を中心に全人口の12%がタリバンの支配下に置かれ、41%がタリバンと中央政府の影響力が伯仲する地域に住んでいる(注3)。米国が支援するアフガン政府の支配は、首都カブール以外では全土の半分ほどにしか及んでいないのが実情だ。

タリバンの「大義」

 アフガニスタンで最大の民族パシュトゥン人の言葉(パシュトゥー語)で「神学生」を意味するタリバンは、79年に侵攻したソ連軍に抗戦するムジャヒディン(イスラム戦士)に加わったムハンマド・オマル師が94年に結成した武装集団だ。89年のソ連軍撤退後しばらく持ちこたえていた共産主義政権が92年に崩壊した直後で、各民族の武装勢力による勢力争いで混迷が深まっていた時期だった。

 タリバンはまず南部の主要都市カンダハルを制圧すると、アフガン国内やパキスタン北西部のマドラサ出身の学生らが加わって勢力を拡大していった。内戦激化と軍閥の腐敗ぶりに疲弊した民衆が、聖典コーランと預言者ムハンマドの言葉を法源とするシャリア(イスラム法)の厳格な適用による統治を唱える神学生らの「世直し運動」としてタリバンを支持していった側面もあったとされる。

 96年には首都カブールに進撃し、98年にアフガンのほぼ全土を支配下に置いたタリバンは、シャリアに基づく統治体制を敷き、女性の就業や教育を禁止し、映像や音楽、子どもたちのたこ揚げやサッカーまで禁ずるといった極端な施策を次々と打ち出した。2001年3月には、「偶像崇拝禁止を徹底する」として世界遺産に登録されたバーミヤンの巨大仏像を爆破して国際社会の強い非難を浴びた。

 タリバンは1997年、ソ連侵攻中にムジャヒディンに加わったサウジアラビア出身のウサマ・ビンラーディンらアル・カーイダのメンバーを保護下に置き、2001年の米同時テロ後も彼らの引き渡しを拒んだために米軍の攻撃で政権の座を失った。ただ、タリバン自体が同時テロ実行に加担したことは確認されていない。

 パキスタンに逃れた後、02年に武装活動を再開したタリバンは、05年ごろからはアフガン国内で自爆攻撃を含む爆弾テロを激化させ、米軍やその支援を受けるアフガン政府を主な標的にしてきた。アフガン情勢に詳しい中東調査会の青木健太研究員は「タリバンが他の国際テロ組織と明確に違うのは、アフガニスタンの土地に強い執着があること。独立し、イスラム的なアフガニスタンの樹立が彼らの目標だ」と話す。テロは非難されても、外国勢力追放という「大義」を支持する住民はなお存在するという。

 外国勢力の影響を嫌うタリバンは、シリアやイラクから進出してアフガン東部で一方的に「ホラサン州」領有を宣言した「イスラム国」とは敵対関係にある。だが共にソ連と戦ったビンラーディンらのことは「客人」として遇し、ビンラーディンとオマル師が死亡した今でもアル・カーイダとの一定の協力関係が伝えられる(注4)。

王政から共産主義、テロの温床へ

 戦争やテロ、イスラム原理主義による統治といった印象が強いアフガニスタンだが、1970年代前半までは安定した立憲君主国で治安も良く、国民は南アジアでも高い生活水準と自由な社会生活を謳歌(おうか)していた。71年には、日本から皇太子(現在の上皇)ご夫妻も訪問している。ご夫妻はこの訪問で感銘を受けたとされ、近年の天皇在位中にも皇居での茶会に招いた欧州のある国の大使の前任地がアフガニスタンだったと知ると、半世紀近く前の平和な同国の思い出をなつかしそうに話しておられたという。

 だが73年の無血クーデターでザヒル・シャー国王が追放されて共和制になり、78年にはクーデターで共産主義政権が発足。79年12月27日にはソ連の侵攻を招いた。アフガン国民が「(余計な)クリスマスプレゼント」と呼ぶソ連侵攻の後、パキスタンとイランなどに1000万人とも言われる難民も流出したが、ソ連軍はムジャヒディンの抗戦でやがて撤退に追い込まれた。

 ムジャヒディンの背後には、ソ連を疲弊させたい米国の武器援助やサウジアラビアの資金提供もあったとされる。ムジャヒディンが肩に担いでソ連軍のヘリコプターを打ち落とした携帯式地対空ミサイル「スティンガー」が米国の武器援助の象徴だが、米国はソ連軍が撤退し、その2年後にソ連邦自体が崩壊する激動の中、アフガニスタンへの関心を急速に失っていった。

 91年には、ブッシュ(父)大統領がアフガン内戦の情勢報告に訪れた中央情報局(CIA)幹部に「あれってまだ続いていたのかい?」と聞き返したという逸話が残されている(注5)。その10年後、ブッシュ(子)政権になっていた米国はアル・カーイダによる9・11の同時テロを許し、3000人近い死者・行方不明者を出す惨事に見舞われて、アフガンがテロの温床となっていたことを思い知る。

 だが米軍の侵攻でタリバン政権があっさり「崩壊」すると、ブッシュ政権の狙いは明らかにイラクのフセイン政権打倒へと移り、アフガンへの関心は再び薄れていった。米国は一度ならずアフガンを「見捨てた」ことで高い代償を支払っている。トランプ政権がその苦い教訓に学ばず、中途半端な形で幕引きをはかろうとすることがあってはならない。

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