新型コロナと生物兵器

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調査研究本部主任研究員 永田和男

 新型コロナウイルスは、感染症がいったん流行を始めれば容易に国境を越え、人命を脅かして社会生活と経済活動を混乱に陥れることをまざまざと見せつけた。感染症が国家と世界の安全保障上の脅威だという認識を深め、将来テロ組織などがさらに毒性の強いウイルスや細菌で製造した生物兵器(注1)を開発・使用する可能性も視野に入れて、医療から治安、防衛まで幅広い分野の連携を構築する努力が各国政府に求められる。

テロリストの「ヒント」

2013年9月、東京国体を控えた警備合同訓練で行われた対生物・化学兵器テロ演習
2013年9月、東京国体を控えた警備合同訓練で行われた対生物・化学兵器テロ演習

 パンデミック(世界的大流行)による混乱が世界規模で広がり続けていた4月9日、テレビ会議で招集された国連の安全保障理事会でグテレス事務総長が、生物兵器の脅威を今まで以上に深刻に受け止めなければいけないとする見解を示して注目された。

 事務総長は「パンデミックが(国際社会の)準備不足と脆弱(ぜいじゃく)性をあらわにしたことで、生物テロ攻撃を仕掛ければどのような結果がもたらされるかが垣間見えた。今回と同様の打撃を世界中に与えられる生物剤に手を伸ばす非国家集団が現れかねない」と語り、生物兵器テロに強い警戒感を示した。

 生物剤とは、生物兵器として利用される病原体あるいはその毒素のことを言う。事務総長は演説で「新型コロナウイルスは一義的には保健衛生問題だが、その影響範囲は、はるか遠くにまで及ぶ」と述べ、多角的な視点で今回の危機を分析する必要があると強調した。そのうえで、各国がパンデミックの対応に追われて社会と経済が大混乱に陥り、国際関係まで緊迫、険悪化してしまったことが、テロリストらに格好の「ヒント」を与えてしまった恐れがある――と警告したのだった。

貧者の核兵器

 核兵器、化学兵器と並ぶ「大量破壊兵器」に位置づけられる生物兵器は、製造コストが比較的安価で、医薬品や肥料など民生品の製造に使う物資や機材、技術が多く転用されていることから、製造や保有を偽装するのも容易とされる。核戦力の取得が困難な国家やテロ組織が手を伸ばしたくなる「貧者の核兵器」とも呼ばれている。

1993年7月、東京・亀戸でオウム真理教のビルから悪臭が広がった問題で教団の退去を求めて詰めかけた近隣住民ら。教団はこのビルで炭疽菌の散布を行っていた
1993年7月、東京・亀戸でオウム真理教のビルから悪臭が広がった問題で教団の退去を求めて詰めかけた近隣住民ら。教団はこのビルで炭疽菌の散布を行っていた

 1990年代に日本のオウム真理教が地下鉄サリン事件の前に炭疽菌によるテロ未遂事件を起こしているほか、北朝鮮も長年、核兵器と並んで生物・化学兵器を開発していると疑われており、ミサイルの弾頭にこうした兵器を搭載する可能性があるとの見方もある(注2)。

 生物・化学兵器関係の著書が多い井上尚英・九州大名誉教授は、生物兵器をその効果によって、〈1〉致死的なもの〈2〉死亡率は低いがヒトを無能力化するもの――の二つに分類する。そのうえで両者に共通する生物兵器攻撃のポイントについて、井上氏は「病気をうまく人にうつす」ことにあると指摘する。

 歴史をさかのぼると、北米大陸で1763年、英軍が反抗的なアメリカ先住民に対して、天然痘患者が入院する病院から持ち出した毛布やハンカチ数枚を送りつけ、おびただしい死者を出した事例もある。このように、生物兵器は戦いの冒頭に敵方を混乱させて攻撃を有利に進めるといった使われ方が多かったとされる。通常兵器や核・化学兵器と異なる特徴としては、使用してから発症まで数日から数週間の潜伏期間があるため使用の事実を確認するのも困難で、攻撃された側はどうしても対応が遅れ、その間に感染がさらに広がってしまうのもやっかいな点だ。

米軍も警戒

 元陸上自衛隊化学学校長の鬼塚隆志氏は、致死性と感染力のきわめて高い細菌やウイルスが効果的にばらまかれれば、「人類滅亡に至るかもしれない」とまで言う。井上氏の生物兵器分類で〈1〉に当たるものへの言及だが、感染力があまり強いと、攻撃した側も被害を免れることはできない。

 鬼塚氏は「兵器とは目的に応じて作るものだ。今回の新型コロナについて、致死性が高くないことをもって『作られた兵器ではない』と断じている人がいたが、きわめて多くの人を感染させ、仕事も出来ない状態にしてしまうものも兵器と言えるのではないか」と指摘する。井上氏の分類では〈2〉に当たる、人を無力化させて敵国の社会を混乱させる目的で開発されたものなら、致死力が強くなくても兵器の役割を十分に果たすというのだ。

 新型コロナの感染者は7月上旬までに全世界で1200万人を超え、特に米国では死者数が13万人を超えて、米軍の朝鮮戦争とベトナム戦争での戦死者数の合計を上回っている。米政治専門サイト「ポリティコ」によると、米国防総省と情報当局は新型コロナウイルスの特徴や起源を探る一方で、このウイルスそのものが軍事目的に転用される可能性にも着目して情報収集活動に当たっている(注3)。

 オバマ前米政権で国防次官補として生物兵器問題を担当したアンドリュー・ウェーバー氏は同サイトに、「今流行中のウイルスをそのまま生物兵器に転用することもできるし、洗練された技術を持つ国家などがウイルスをより強力に変異させて使うことも考えられる」と語った。

 ウイルスに感染した工作員が政府や軍の関係施設に立ち入ったり近づいたりするだけでも十分脅威になるという見方もある。原始的な作戦だが、特に軍隊は陸海空とも密集、密接、密閉の「3密」が避けられない環境で常に活動している。今年4月には太平洋上で米海軍の空母「セオドア・ルーズベルト」の乗員約4800人中1000人以上が新型コロナウイルスに集団感染して艦が機能不全に陥り、中国の台頭で緊迫するインド太平洋地域の防衛体制にも少なからぬ影響を及ぼすことが懸念された。

科学の悪用

 1975年に発効した「生物兵器禁止条約」は今年6月現在、183か国・地域が加盟し、条文は生物兵器の開発・生産・貯蔵を明確に禁止している。核拡散防止条約(NPT=70年発効)が、条約の締結時点で核兵器を取得していた5か国(米露英仏中)になお保有を認めているのと違い、生物兵器はすべての国が持つことを禁止されている。

 だが、NPTとも化学兵器禁止条約(97年発効)とも違って、生物兵器禁止条約は締約国内の関連施設に対して、査察などの手段で条約の履行状況を検証する規定がないことが大きな弱点だ。非国家主体のテロ組織や個人でも生物兵器を作製できることを考えれば、条約による規制の限界は否めない。

 生物兵器に使われる可能性がある細菌やウイルスの代表例は、炭疽菌や天然痘ウイルス、ペスト菌、ボツリヌス菌などが知られている(注4)。

 感染力の高い天然痘は80年に撲滅が宣言されたが、今も米国とロシアでウイルスが保管されている。さらに近年は生命科学の進歩で、人工合成による天然痘ウイルスの再現も実現に近づいているとされる。

 生物兵器に詳しい防衛医科大の四ノ宮成祥(なりよし)教授は、「非常に悪意を持ってやればだが」と断ったうえで、技術的には現在流行している新型コロナウイルスも、人工的に変異させることでPCR検査をすり抜けるようにできるほか、さらに極端な例では、ゲノム編集技術で特定の人種集団だけを標的にするよう改造できる可能性すらあるという。生命科学分野の研究は近年、その進歩と同時に、医療目的で作られた技術が誤用・悪用されてテロ目的に使われかねないというデュアルユース性(両面性)の問題が大きなジレンマになっている。この問題を追究する四ノ宮氏は、研究者が自分の研究にリスクがあることを自覚するほか、出版社も論文や書籍が及ぼす影響を考慮し、国も研究費を出す際に十分検討を行うなどの慎重な態度がますます重要になると話す。

米炭疽菌事件の衝撃

 2001年、米国では9月11日にニューヨークとワシントンで起きたハイジャック機突入による同時テロ事件の直後から、政界やメディア関係者に炭疽菌の粉末入りの封書が相次いで送りつけられ、菌を吸入した5人が肺炎に似た症状の炭疽症を発症して死亡した。同時テロを起こしたイスラム過激派アル・カーイダの関与が疑われたが、08年になって米陸軍感染症医学研究所の研究者が容疑者と断定され、逮捕前に自殺する意外な結末となった。

 同時テロを受けて米国のブッシュ(子)政権が地球規模の「テロとの戦い」を宣言する一方で、炭疽菌事件も世界的に生物兵器テロ対策への関心を高める契機になった。05年には世界保健機関(WHO)がテロ対策を視野に国際保健規則(IHR)を改正し、どのような感染症であっても国際的な公衆衛生上の脅威となる可能性がある事態が発生すれば、24時間以内にWHOに通報することなどを加盟国に義務付けるようになった。

 01年以降のアル・カーイダやその系列組織、また近年の「イスラム国」などの過激派によるテロ事件は、爆発物や銃刀を使ったものが多く、本格的な生物兵器テロは起きていない。それでも14年に「イスラム国」メンバーの潜伏先から発見されたパソコン内に、ペスト菌を使う兵器に関する文書が残されていたと報じられるなど、懸念はくすぶり続けていた。

 そうした中で起きた今回のパンデミックは、改めて生物兵器への関心を呼び起こす形となっている。今年5月13日には、日本や中国を含むジュネーブ軍縮会議代表部の公使級と生物兵器問題専門家らが、生物兵器禁止条約の枠組みで今回の危機にどう対応できるかを協議する緊急のテレビ会議を行った。

 加盟国間で情報交換を密にすることを確認したほか、生物兵器禁止条約に生物兵器による攻撃などで危機にさらされた加盟国への支援を行える条文があることから、コロナで深刻な被害を受けた途上国に適用できないか、などを巡る意見交換が行われたという。条約は5年に1度の再検討会議を来年に控えている。「コロナを受け、何かをしなければいけないという意識は出ていると思う」(日本外務省幹部)といった声も聞かれ、新型コロナウイルスで生じた危機が、生物兵器禁止条約体制を強化しようとする機運につながるかどうか注目される。

リスク評価

 生物兵器テロの脅威は、どれほど差し迫ったものと考えればよいか。一例として、15年に英国政府が発表した「国家安全保障リスク評価」(注5)を挙げておく。英本土や海外領土に被害を与える人為的攻撃や自然現象を、事象ごとに「発生確率」と「起きた時の衝撃」(予想される死者・負傷者の数、経済的損失、社会不安など)という二つの尺度で評価して3段階に分類したものだが、サイバー攻撃、武力紛争、国際テロ、自然災害(洪水など)と並んで「インフルエンザ大流行」が発生確率、衝撃とも最高の「第1列」に分類された。

 一方、「核・化学・生物兵器による攻撃」は、衝撃は巨大だが起きる確率はやや低いとして1段階下の「第2列」に置かれた。ただ生物・化学兵器テロについては、作製のための技術の拡散などを背景に、20年代以降は危険が増す可能性があるとも予測していた。

 このリスク評価は、政府が様々な危機対応に予算や人員をどう配分するかを判断する根拠に使われる。英政府は15年のリスク評価も踏まえ、3年後の18年7月に感染症対策の包括的文書「国家バイオセキュリティー戦略」を発表した。「バイオセキュリティー」は、生物剤を使った犯罪やテロを防止する観点から病原体の管理や研究要員の行動監視、教育、研究内容の審査などを講じるための概念で、病原体を扱う人や環境への被害を防ぐ方策を考える概念である「バイオセーフティー」とは異なる。

 英国の戦略では、リスク評価の第1列にある感染症と、第2列だが対策において重なる部分が多い生物兵器テロが一本化して扱われている。前文で、生命を脅かし社会と経済に混乱をもたらす感染症は「始まり方が自然発生でも、研究所などの事故でも、故意によるものでも同じだ」として、その脅威が強調された。ダークウェブと呼ばれる暗号化された闇のウェブサイトが拡大するなど、兵器開発に必要な物資や知識がインターネット上でも得られる現状にも触れ、生物兵器テロ対応も含める形で感染症に対する戦略を打ち出す必要を強調していた。

反面教師としての米英

 英国の国家バイオセキュリティー戦略は、国家安全保障会議(NSC)の下に関係省庁の感染症対策を統括する閣僚会議の設置などを提唱していた。ところが英紙によると、設置された関係閣僚15人による会議は18年秋以降、欧州連合(EU)からの離脱が英政府の最優先事項となる中でたちまち縮小され、昨年7月のジョンソン政権発足直後に廃止された(注6)。

今年1月31日夜、ロンドン市内に繰り出してEUからの離脱を祝う人々(ロイター)。英政府は離脱準備を最も優先し、感染症対策は縮小を余儀なくされたという指摘もある
今年1月31日夜、ロンドン市内に繰り出してEUからの離脱を祝う人々(ロイター)。英政府は離脱準備を最も優先し、感染症対策は縮小を余儀なくされたという指摘もある

 英国は今年1月末にEU離脱を果たしたが、その直後から新型コロナウイルスの流行が始まり、6月までに4万人を超す死者を出すなど封じ込めに失敗している。今、野党からは閣僚会議の廃止を問題視する声が起きている。もちろん、これだけが新型コロナ感染拡大を招いた原因だとは言えない。ただ、会議のメンバーだった元閣僚は英紙の取材に、「EU離脱への対応に多くの時間を割くため、他のすべての時間が削られる状況だった」と振り返っている。

 米国でも、歴代政権が生物兵器テロに関心を持ち、トランプ政権下では18年に「国家バイオ防衛戦略」が発表されていた。だが新型コロナ対策でトランプ政権は後手に回る場面が多く、死者数、感染者数は7月上旬現在で世界最多となっている。トランプ政権下では公衆衛生が軽視され、米国家安全保障会議(NSC)の感染症対策チームを解散させたり、米疾病対策センター(CDC)の予算削減を図ったりしたことが今になって糾弾されている。

新型コロナの感染拡大で厳しく外出が制限され、静まりかえる米ニューヨークの目抜き通り(2020年3月22日撮影)
新型コロナの感染拡大で厳しく外出が制限され、静まりかえる米ニューヨークの目抜き通り(2020年3月22日撮影)

 現在ニューヨーク駐在でロックダウン(都市封鎖)を経験した防衛省防衛研究所の田中極子(きわこ)主任研究官は、「米国の戦略はパンデミックを安全保障上の脅威ととらえ、国内各分野や国際間の協調を前面に出すもので、関係する分野の人々の脅威認識はきわめて高い。しかしそこに政治的な優先順位がつかない。描かれた絵(戦略)はすばらしいが、米国の専門家から聞かれるのは、NSCの中でバイオ脅威への認識をしっかり持つ人がいないということだ」と述べ、政府最高レベルの調整機能不全で米軍や関係各省庁が長年培ってきた感染症対策の知見やネットワークがいかされていないとの見方を示す。

 英国と米国の経験から何が学べるか。「絵に描いた餅」とやゆするのはたやすいが、国家戦略という形で政府全体の指針になる明解な「絵」を描くことはぜひ必要な作業だろう。感染症が安全保障上の脅威であり、政府一丸となった取り組みと国際協調が欠かせないという認識を、包括的な文書の中で明確に述べておく意味は決して小さくない。また、予算と人員に限りがある中で数多くのタイプの危機への準備を行おうとすれば、可視化されたリスク評価を行って優先順位をつけやすくするという手法も参考になるだろう。

 だが、その国に何か別の喫緊の課題が生じた場合、あるいは指導者が十分な関心を示さない場合でも、いつとは言えないが確実にやってくる危機への備えを続けられるか。英国と米国はこの難問の答えを準備できないまま失敗したと言える。日本をはじめ世界中のあらゆる国が他山の石としなければならない点である。

新安保戦略

 日本では、医療だけでなく経済や教育など幅広い影響が及ぶことが明らかになった感染症対策を厚生労働省主導で進めることの限界が指摘され、省庁横断の感染症担当相ポストを設置するなどの議論が行われるようになった(注7)。

 折しも、6月末に地上配備型迎撃システム「イージスアショア」の配備計画が撤回されたことを発端に、政府・与党が新たな安全保障戦略の議論を開始した。13年策定の国家安全保障戦略では、生物兵器は核・化学兵器とならんで「大量破壊兵器等の拡散の脅威」の項目に置かれ、いわば伝統的な国の安全保障の問題として扱われている。一方、「感染症を含む国際保健課題」は、貧困や格差の拡大、環境や食料などの課題とともに、国家の安全保障と区別して個人の安全に着目する「人間の安全保障」の対象とされている。

 国家安全保障戦略の見直しに際しては、過去7年間の戦略環境の変化と、新型コロナ収束後を視野においた「ポストコロナ」対策が反映されなければならない。感染症対策では、自衛隊の知見や技能が有益なケースが多い。日頃から公衆衛生部門と自衛隊の連携を進めるためにも、また感染症対策の担当相を設けるなどの制度改革論議に根拠を与える意味でも、新しい国家安全保障戦略では感染症対策を個人だけでなく国の安全保障の問題であるという認識を示し、生物兵器テロ対策も取り込む形で論じるべきではないか。

公衆衛生と安保の連携

新型コロナの軽症者を受け入れる埼玉県熊谷市のホテルで、自衛隊員から防護服の着脱方法を教わるスタッフ(2020年4月29日撮影)
新型コロナの軽症者を受け入れる埼玉県熊谷市のホテルで、自衛隊員から防護服の着脱方法を教わるスタッフ(2020年4月29日撮影)

 新型コロナでは、自衛隊中央病院(東京・世田谷区)がクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の集団感染による陽性者100人以上を受け入れても、院内感染を一切起こさなかったことで注目された。自衛隊は、生物兵器テロに対処する訓練だけでなく、国連平和維持活動(PKO)を通じ、環境の厳しい世界の各地で風土病や害獣、害虫に関する情報や治療法などの蓄積がある。今回の感染拡大でも、空港での検疫や、帰国者が空港からPCR検査の結果が出るまで滞在するホテルなどへの輸送、宿泊先での生活(食事配分や廃棄物の処理など)といった様々な現場で自衛隊の知見を生かした支援が行われていた(注8)。

 防衛省出身で軍縮会議代表部大使を務めた高見沢将林(のぶしげ)氏は「感染症対策は生物兵器対策と似ている」と述べる。高見沢氏は、各国の軍も生物兵器に対応する訓練のマニュアルを持ち、風土病や感染症対策を徹底していることから、今回のような未知の感染症が起きた際に、世界各国の公衆衛生当局と軍関係者がノウハウを共有していくメリットは大きいはずだと話す。

 高見沢氏によると、いずれもジュネーブに本部を置く国連軍縮会議とWHO、赤十字国際委員会(ICRC)は日頃から接触の機会も少なからずあって、感染症や生物兵器への対応で情報の共有は意外にスムーズに行われている。高見沢氏は大使時代、ジュネーブで開かれる生物兵器関係のセミナーや会合に厚労省など日本の各省庁も職員を派遣して国際的に発信を行い、有益な知見を得る機会とするよう呼びかけてきたと話す。ただ各省庁も理解は示すものの、国会日程などの業務や予算の制約で実現しないことも多かったという。

現場レベルの協力

 新型コロナで厚労省のクラスター対策班の立ち上げに携わった齋藤智也・国立保健医療科学院健康危機管理研究部長は、16年から3年間主宰した「バイオセキュリティ研究会」で、感染症を公衆衛生と安全保障の二つの観点から見ることをテーマに各分野の専門家と交流した経験を持つ。氏の研究会では生物兵器テロなど安全保障寄りのテーマもよく取り上げたが、「公衆衛生以外の警察や防衛、そういった人たちといかにネットワークを作り、協調していくかを主眼にしていた」と振り返る。

 日本は、18年にWHOが国際保健規則の定める感染症対策などの履行能力を判定する目的で行った調査で、48項目中30項目で最高点(5点)を獲得するなどおおむね高い評価を得た。だが同時に、「公衆衛生部門と法執行部門の情報共有や、生物兵器テロを想定した合同演習の実施」で、なお改善の余地があるという指摘も受けていた(注9)。

 齋藤氏によると、新型コロナのクラスター対策でも、保健所の調査チームに警察OBが加わって聞き込みを手伝う自治体があったほか、東京五輪・パラリンピック向けに都道府県の警察と保健担当者による合同演習も行われるなどの協力が各現場で行われている。

 米誌最近号の論考に、「公衆衛生部門には軍との交流を好まない人が多い。自分たちは治すのが仕事で(軍隊のように)殺すことでないという風に考えるからだ」という指摘があった(注10)。そのうえで、共同筆者の感染症専門家マイケル・オステルホルム氏(米ミネソタ大)らは、「感染阻止には軍の作戦計画の立て方から学ぶことが多い」と述べ、「事態が大きくなってから現場で顔を合わせ、名刺交換から始めるようではだめだ」など、公衆衛生部門の人々が軍や警察関係者と日頃からネットワーク作りに努める必要を改めて説いている。

 新型コロナウイルスが収束しても、近い将来また正体不明の感染症が流行するリスクはある。それが自然発生でなく、テロリストによって拡散されたものである可能性は常に排除できない。各分野の専門家と世界各国が知見を共有して立ち向かう以外に人類がウイルスに勝つ近道はない。だとすれば、その第一歩となる現場でのネットワーク作りを後押しするためにも、各国政府には明確な国家戦略を策定し、縦割り行政を解消して感染症対策に適切な予算と人員の配分を行うなどといった着実な取り組みが期待される。

注釈

 注1 井上尚英「生物兵器と化学兵器」(中公新書)は、生物兵器を「ヒトを殺すか長期間無力化するために用いられる病原微生物と、生物から抽出された毒素」と定義している。
 注2 令和元年版防衛白書97-98頁には、北朝鮮の大量破壊兵器・弾道ミサイルの分析で「北朝鮮が弾頭に生物兵器や化学兵器を搭載し得る可能性も否定できないとみられている」との記述がある。
 注3 Officials probe the threat of a coronavirus bioweapon
 注4 厚生労働省「生物兵器テロの可能性が高い感染症について
 注5 HM Government “National Security and Strategic Defence and Security Review 2015―A Secure and Prosperous United Kingdom” に収録。
 注6 Boris Johnson ‘scrapped Cabinet pandemic committee six months before coronavirus hit UK’
 注7 「新型コロナ 読売新聞社提言」(読売新聞2020年6月22日付朝刊)は、「業務量が肥大化した厚労省は、平時でも職員の負担が過重となっており、非常時に感染症対策のしきり役を任せるのは無理がある」と指摘し、「内閣官房が政権中枢と緊密に連携し、対処に当たることが重要だ」と指摘している。
 注8 防衛省・自衛隊HP「新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けた取組
 注9 Joint External Evaluations of IHR Core Capacities of Japan
 注10 Michael T. Osterholm and Mark Olshaker “Chronicle of a Pandemic Foretold”, Foreign Affairs (July/August 2020) pp. 10-24.

プロフィル
永田 和男( ながた・かずお
 調査研究本部主任研究員。

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1387385 0 読売クオータリー 2020/08/05 11:00:00 2020/08/05 11:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/07/20200730-OYT8I50020-T.jpg?type=thumbnail

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