加藤一二三という生き方(上)盤上の激闘

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大山流の将棋は気合と意地

大山康晴名人(左)には多くのことを学んだ(1968年撮影)
大山康晴名人(左)には多くのことを学んだ(1968年撮影)

 加藤九段が20歳だった1960年、名人戦七番勝負で大山康晴名人(当時)に挑戦した。この時のフィーバーもすごかったらしい。第1局が行われた東京・広尾の羽澤ガーデン(2005年閉鎖)には報道陣が押し寄せ、外国の通信社まで取材に来たという。

 早稲田大学に在学中だった加藤九段は、和服を新調して勝負に臨んだ。第1局は快勝。世間は大いに盛り上がった。ところが、大山名人はここから底力を発揮する。

 特に、第3局でやや劣勢と見られた大山名人が指した粘りの一手は、加藤九段の脳裏に今も深く刻み込まれている。「大山流の将棋は気合と意地です。大山先生は理論派ではありません。でも、相手の心に響く手を指すことができる人で、私はそこに感心しました」

 結果は1勝4敗だったが、大山名人から得たものも大きかった。

 加藤九段が73年の名人戦で中原誠名人(当時)にいいところなく敗れた時、知人を介して「もっと前に出なさい」とアドバイスをくれたのも大山氏だった。

95%負けていた

中原誠名人(当時)とは十段戦で何度も名勝負を繰り広げた。中原名人から名人位を奪取したのは1982年のことである
中原誠名人(当時)とは十段戦で何度も名勝負を繰り広げた。中原名人から名人位を奪取したのは1982年のことである

 「名人を8期保持した森内俊之九段が、印象に残るシリーズとして、1982年に私と中原名人(当時)が戦った第40期名人戦を挙げてくれました」。東京・吉祥寺で今年6月18日に開かれたトークショーで、加藤九段は歴史に残る激闘を振り返った。

 加藤九段は他のタイトル戦では中原名人に勝っていたが、名人戦9連覇中だった中原名人の執念もすさまじかった。持将棋(引き分け)1回、千日手(堂々巡りで局面が打開できなくなること)2回と、七番勝負は実質十番勝負となり、決着は7月30、31日に東京・千駄ヶ谷の将棋会館で行われた最終局に持ち越された。

 この将棋は後手番ながら中原名人の方から積極的に仕掛けてきた。怒濤(どとう)のような中原名人の攻めに、加藤九段はじっと反撃の機会をうかがう展開を余儀なくされた。

 「あの将棋、95%私の方が負けていました」

 というのも、終盤、中原名人が必勝となる手順があったからだ。それを中原名人が見逃してからは混戦となり、83手目、加藤九段が5四銀という勝負手を放った。

 その時の心境を加藤九段はこう振り返る。「この手を指しても、厳密に言えば私の方が少し大変(形勢がやや不利)ですよ。でも、実に澄み切った無心の心境で指すことができました。我ながらよくあの場面で冷静だったなと思います」

 中原名人はこの手への対応を誤り、形勢が逆転。勝つ手を見つけた加藤九段は思わず「あぁ、そうか」と叫んだ。まもなく中原名人が投了。念願の名人位を獲得した。

 加藤九段は「1982年7月31日の夜9時2分」と時間まで正確に覚えている。

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