忖度?公文書書き換え、江戸時代も…将軍自ら追及

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でっち上げ、すり替え…不正の連鎖

朝鮮通信使を描いた「朝鮮国信使絵巻・文化度」(部分)(長崎県立対馬歴史民俗資料館蔵)
朝鮮通信使を描いた「朝鮮国信使絵巻・文化度」(部分)(長崎県立対馬歴史民俗資料館蔵)

 困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走った。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げたのだ。

 朝鮮側の記録によると、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されていた。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったものだったという。

 日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂して再度の出兵(慶長の役)となるのだが、すでに明と冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んでいた。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度(そんたく)して作成されたわけだ。

 国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣した。回答使は「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。

 そこで対馬藩は、今度は朝鮮国王の印鑑を偽造し、「奉復」を「奉書(拝啓)」に書き換えた朝鮮国書をでっち上げた。ついでに朝鮮から将軍への献上品を記した目録(別幅(べっぷく))も改ざんして、虎皮や朝鮮人参の数を追加した。『柳川記』によると、偽国書は将軍と回答使が謁見する当日、義智の重臣だった柳川智永(?~1613)が、すきを見て江戸城内ですり替えたという。

 こうして日朝の国交は回復し、朝鮮から国書を携えた使節団が定期的に来日するようになった。だが、やりとりされた国書は初回の偽国書を先例に書かれたため、そのたびに「奉復」を「奉書」に、将軍の肩書きは「日本国王」に直さなくてはならなくなった。改ざんが改ざんを呼び、対馬藩は義智の死後も組織ぐるみで改ざんを続けざるを得なくなったわけだ。

27年後の告発、将軍自ら“証人喚問”へ

 積み重ねられた国書の改ざんは、最初の家康国書の偽造から27年後に、対馬藩家老の内部告発という形で露見した。義智を継いで藩主となった息子の宗義成(1604~57)と、智永を継いで家老となった息子の柳川調興(しげおき)(1603~84)が不仲となり、対馬藩を離れて旗本になろうとした調興が、幕府に改ざんを暴露したのだ。

 調興は証拠として偽国書の写しと偽印鑑の実物を提出し、「改ざんは宗氏が主導し、宗氏の指示で行われた」と訴えた。当然、自らも訴追の恐れがあったが、調興は江戸生まれで家康、秀忠の小姓を務め、幕閣に人脈があったから、罪を義成に押し付けられると読んだのだろう。これに対して義成は「朝鮮との交渉は柳川氏に任せており、昔の改ざん時には自分はまだ子どもで、何も知らなかった」と反論した。

 幕府は朝鮮との交易を一時中止し、対馬に役人を派遣して偽国書に携わった義成の家臣や外交僧、偽印鑑を作った島民らへの訊問を重ねた。重要証人は江戸に連行され、老中が直接、誰の指示で偽造したのかを問いただした。決着は家光の裁定に委ねられ、1635年(寛永12年)3月11日、御三家や老中、若年寄、江戸にいる諸大名、旗本が見守る中、江戸城本丸の大広間で家光による“証人喚問”が行われた。

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35367 0 深読み 2018/04/03 11:50:00 2018/04/03 11:50:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180330-OYT8I50045-T.jpg?type=thumbnail

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