平成そっくり?猛暑、豪雨、台風に怯えたあの時代

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

紫式部の驚くべき気象観察力

紫式部像(京都府宇治市の宇治川で)
紫式部像(京都府宇治市の宇治川で)

 急に吹き出した風で六条院・南御殿の庭に咲き誇っていた秋の花が散ったとあるから、時期は9月か10月。前日の昼間から吹き始めた風がだんだんと強くなり、一晩中もみぬいたとあり、典型的な「風台風」とみられる。源氏の息子、夕霧の祖母が「この年になるまで経験したことのないはげしい野分」と話し、「大木の枝が折れ、家々の瓦が飛び、離れの建築物が倒れそうだった」とあるから、台風の規模は大型。中心付近が通過した京都は、少なくとも風速25メートル以上の暴風域に入ったようだ。

 強風を受けて御殿の屏風(びょうぶ)は片づけられ、目隠しがなくなって御殿は部屋の中まで丸見えだった。屋敷のそばを通りかかった夕霧は、中にいた紫の上を見てしまう。夕霧は源氏と(あおい)の上(すでに死去)の間にできた子だったが、源氏は自身が義母(藤壺)と関係した経験からか、紫の上を夕霧に一度も会わせなかった。案の定、紫の上を見た夕霧はその美貌が頭から離れず、一睡もできずに過ごす。外の風の音が聞こえる暗闇の中、眠れずにひとり悶々(もんもん)と過ごす夕霧の姿が目に浮かぶようだ。

 石井さんは、「今年の野分は例年よりも荒々しく、たちまち空の色を変えて吹き出した」「日が暮れるにつれ、物も見えないように吹き荒れる風」「丑寅(うしとら)(北東)の方より吹き(はべ)る」などの記述から、「野分」のコースや規模は、1934年(昭和9年)の室戸台風によく似ていたとみている。その上で「台風の特徴や進路まで推測できるほどの科学的な描写は、現在の気象予報士顔負けだ」と、紫式部の気象センスと観察力に舌を巻いている。

真夏にも「十二単」の誤解

 ただ、四季折々の自然の描写については、『枕草子』を書いた清少納言(?~1025)の方が先輩だ。

 『枕草子』にも、猛暑の中、宮中でかき氷を食べた記述がある。夕霧が紫の上を見てしまったのは、当時の貴族の屋敷に壁がなく、風通しがいい(すだれ)几帳(きちょう)で仕切られていただけだったからだが、この「寝殿造(しんでんづくり)」も温暖化した気候の産物という説もある。

 貴族の衣装といえば「十二(ひとえ)」が目に浮かび、「暑いのになぜあんなに重ね着をするのか」という疑問が湧くかもしれないが、十二単は女性の正装の総称で、いつも十二枚の重ね着をしたわけではない。平安時代の絵画などに登場するのはむしろ薄着が多く、『源氏物語』にも、シースルーのような薄着をした娘がはしたないと怒られるくだりがある。

 ちなみに紫式部と清少納言は顔を合わせたことはないが、紫式部は清少納言について「得意顔して偉そうにしていた。利口ぶって漢字などを書き散らしていたけれど、たいしたことはない」(『紫式部日記』)と激しくライバル視している。どちらが優れているかはさておき、花鳥風月に情感を込めた優雅な宮廷女流文学が次々に花開いたことも、温暖な気候のたまものかもしれない。

1

2

3

4

無断転載禁止
45324 0 深読み 2018/10/11 18:05:00 2018/10/11 18:05:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20181011-OYT8I50060-T.jpg?type=thumbnail

おすすめ記事

アクセスランキング

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)
ページTOP
読売新聞社の運営するサイト
ヨミダス歴史館
ヨミドクター
発言小町
OTEKOMACHI
元気ニッポン!
未来貢献プロジェクト
The Japan News
美術展ナビ
教育ネットワーク
活字・文化プロジェクト
よみうり報知写真館
読売新聞社からのお知らせ