西郷どんが「革命家」? 大河に違和感を抱く理由

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西郷どん方針転換…江戸総攻撃中止の“黒幕”

西郷像
西郷像
木戸孝允
木戸孝允
大久保利通
大久保利通

 社会学者の大沢真幸さんも『日本史のなぞ』(朝日新書)の中で、明治維新は革命ではなかったとみている。革命とは外部の力を借りず、意図的に起きる社会の変動であって、黒船来航という外圧をきっかけに起きた明治維新はこれに該当しないというわけだ。この考えに従えば、外圧を頼らず、自らの意思で前体制を破壊した人のみが革命家、ということになる。

 『西郷どん』の中で西郷は、「日本のことは日本人で解決しなければならない」とイギリスの援助を拒否し、武力討幕に突き進む。武力を使わない大政奉還による政権交代を目指す坂本龍馬(1836~67)と対立し、「自分一人になっても慶喜の首を取る」と、執拗(しつよう)に徳川慶喜(1837~1912)を追い詰める。SNS上には「西郷がダークサイドに()ちた!」「戦いの鬼すぎて怖い」と、西郷の変わりぶりに戸惑う声が相次いだが、「突然のキャラ変更」は西郷を革命家として描くには必要なことだったのだろう。

 しかし、武力討幕のクライマックスでの実際の西郷の動きは、ドラマとはだいぶ異なる、との説もある。江戸総攻撃の直前、西郷は横浜にいたイギリス公使のハリー・パークス(1828~85)に使者を出し、総攻撃の了解を取ろうとした。ところがパークスは、新政府に恭順の意を示していた慶喜の討伐に強く反対し、慶喜の亡命をイギリスが受け入れる可能性にまで言及したという。返答を聞いた西郷はしばし愕然(がくぜん)としたというが、勝海舟(1823~99)との会談ではそれまでの強硬姿勢をあっさり転換し、総攻撃の中止を承諾した。

 西郷の方針転換は京都で開かれた三職会議で承認されたが、木戸孝允(1833~77)は西郷の豹変(ひょうへん)ぶりを「眼中には徳川しかないと言いつつ、実は欧州(イギリス)があるのみだ」と痛烈に皮肉っている(石井孝『明治維新の舞台裏』)。

 西郷とともに慶喜抹殺を主張していた大久保利通(1830~78)は、江戸総攻撃の1か月前には慶喜を助命し、備前藩(岡山県)お預けとする収拾案を示していた。百万の江戸市民の犠牲を避けるという西郷の決断がなければ無血開城は実現しなかったのは確かだが、そもそも江戸総攻撃の方針が慶喜に無条件降伏を迫る交渉戦術に過ぎず、パークスの意向に左右されていたとすれば、西郷や大久保は革命家というより、戦略家ではないか。

 西郷らの方針転換を皮肉った木戸は、当初から慶喜の寛大な処置を主張していた。「維新の三傑」はいずれも、旧体制を完全に破壊し、江戸時代との完全な決別を追求したわけではなかったといえる。

 

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45907 0 深読み 2018/10/23 07:00:00 2018/10/23 07:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20181022-OYT8I50014-T.jpg?type=thumbnail

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