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    文化

    ノーベル賞期待のハルキ文学、原文とは違う英訳本の魅力

    東京学芸大学准教授 小澤英実
     毎年ノーベル賞発表の時期になると、村上春樹の周辺が騒がしくなる。今年こそノーベル文学賞をとれるのか。多くの人の関心はそこに集中する。今回も受賞を逃したが、村上作品は英語をはじめ多くの言語に翻訳され、世界中で愛読されている。文学だけでなく音楽やポップカルチャーまで英語圏の文化に幅広く精通している村上春樹が書いた作品は、英語との親和性が高い。作品が素直に英訳できる。村上春樹が毎年ノーベル文学賞候補に挙げられる背景はそんな理由もありそうだが、実はその英訳は原文とは違った魅力を放っているのだ。

    読んですぐ英訳が浮かぶ文体

    • 世界で愛読される村上春樹の作品。ロンドンの書店でもサイン会が開かれた(2014年8月撮影)
      世界で愛読される村上春樹の作品。ロンドンの書店でもサイン会が開かれた(2014年8月撮影)

     村上春樹の小説は、なぜ世界中の人々に読まれているのか――これはハルキ文学に興味を持つ人が一番知りたい疑問のひとつだろう。答えは読者の数だけあるが、よく聞かれる意見として「翻訳がしやすい文体だから」というものがある。

     たしかに村上春樹の文体は英語の直訳のような文章も多く、読んでいて英訳が頭に浮かんでくることもしばしばだ。村上春樹自身、デビュー作「風の歌を聴け」を書く時に、既存の日本純文学のものと異なる独自の文体を手に入れるため、冒頭部分をまず英語で書き、それを日本語にしたと述べてもいる。実際に翻訳された文章を日本語に訳し戻してみたら、原文とほとんど同じものになったという人もいるぐらいだ。

     こう聞くと、言語を問わず世界中の読者がほぼ同じものを味わっていると思ってしまうが、実際に英訳を読んでみると、細かなところにさまざまな違いがみえてきて、驚くような発見が多くある。

    爆笑誘う“TV People”

     例えば英語圏の読者にとって、村上文学の大きな魅力はユーモアの感覚にある。私が現在担当しているNHKラジオの番組「英語で読む村上春樹」では、今年4月から9月にかけて「TVピープル」という短編を英語と日本語で読んだのだが、もうひとりの出演者であるマシュー・チョジックさん(テンプル大学講師)は、この英訳を「爆笑しながら読んだ」と言う。

     物語は会社員の男の家にある日突然TVピープルという謎の三人組が闖入(ちんにゅう)するというもので、不条理な話だが全体のトーンには不穏な恐ろしさが漂っている。はじめはどこに爆笑できる要素があるのかと不思議に思ったが、実際に英訳を読んでみてよくわかった。

     例えばこの物語には、主人公の青年の世界が変容をきたしていることを示す、村上春樹が創作したオリジナルのオノマトペ(擬態語・擬音語)がたくさん登場する。

     置き時計の秒針の音は「タルップ・ク・シャウス、タルップ・ク・シャウス」と表記されているが、これは英訳では“TRPP Q SCHAOUS TRPP Q SCHAOUS”となっていて、英語にはアメリカン・コミックスによく登場するオノマトペ(BOOOMやWHAM!など)を彷彿(ほうふつ)とさせるようなユーモラスな要素が加わっているのである。

    「かえるくん」から「Super-Frog」へ

    • 英訳された村上春樹の作品
      英訳された村上春樹の作品

     また「かえるくん、東京を救う」という短編では、主人公である片桐という会社員の青年の部屋に、人間の言葉を話すカエルが押しかけ、東京を大地震から救ってくれと頼む。

     この英語版のタイトルは“Super-Frog Saves Tokyo”となっていて、日本語版のタイトルは、ひらがなの持つ柔和なニュアンスでかわいらしいイメージの「かえるくん」が「東京を救う」というミスマッチに面白さがあるが、英語版のSuper-Frogにはアメコミのスーパーヒーローのような雰囲気が漂っていて大きく異なる。

     さらにこのかえるは自分の呼び名に強いこだわりがあり、「ぼくのことはかえるくんと呼んで下さい」と言って、片桐とこんなやり取りを交わす。

     

     「ねえ、かえるさん」と片桐は言った。

     「かえるくん」とかえるくんはまた指を一本立てて訂正した。

     「ねえ、かえるくん」と片桐は言い直した。(「かえるくん、東京を救う」より)

     

     これが英訳では、

     "To tell you the truth, Mr. Frog―――"

     "Please," Frog said, raising one finger again."Call me `Frog.’"

     "To tell you the truth, Frog," Katagiri said[……].(ジェイ・ルービン訳「Super-Frog Saves Tokyo」より)

     

     日本語の「くん」や「さん」などの敬称の違いを英訳するのは至難の業で訳者泣かせのところだが、英訳は「かえるさん」を"Mr. Frog"、「かえるくん」を"Frog"としている。Mr.Frogというといっぱしの紳士のような感じで、「ですます調」で丁寧なしゃべり方をする「かえるくん」には合っているが、なんだかスーツでも着ていそうな雰囲気がする。

     また「かえるくんと呼んでください」という部分の訳にあたる"Call me Frog"は、おそらくアメリカ文学の古典であるハーマン・メルヴィルの「白鯨」の出だし"Call me Ishmael"をもじったものと思われ、訳者はここにもさりげない連想とそこから生まれるユーモアをひそませているのである。

    2015年10月08日 20時15分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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