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    歴史

    大河ドラマ「真田丸」の舞台(4)…上杉謙信・景勝の「春日山城」

    城郭ライター・萩原さちこ

    本能寺の変で滅亡を免れた上杉景勝

    • 「御館の乱」の舞台となった新潟県上越市の御館跡(御館公園)。御館とは、謙信が関東管領の上杉憲政(のりまさ)を迎えた際に居館として建てた関東管領館のこと。景勝が先手を取って春日山城を占拠すると、景虎は城を離れて御館に籠もった(萩原さちこ撮影)
      「御館の乱」の舞台となった新潟県上越市の御館跡(御館公園)。御館とは、謙信が関東管領の上杉憲政(のりまさ)を迎えた際に居館として建てた関東管領館のこと。景勝が先手を取って春日山城を占拠すると、景虎は城を離れて御館に籠もった(萩原さちこ撮影)

     1582年(天正10年)3月11日の武田勝頼自刃に続き、6月2日には本能寺の変で織田信長が横死。旧武田領では真田一族も翻弄される上杉・徳川・北条の3氏による攻防戦が繰り広げられるわけですが、当時の上杉氏は決して順風満帆ではありませんでした。実は本能寺の変の直前、上杉家は信長に追い詰められ存亡の危機に立たされていました。本能寺の変がなければ滅亡していたと思われます。

     大河ドラマで昌幸が最初に景勝に従った際、「援軍は出せない」と昌幸の依頼を断るシーンがあったのを覚えているでしょうか。信長に滅亡寸前まで追いつめられていた上杉軍は弱体化し、そんな余裕はなかったのです。

    • 松倉城は標高430.9メートルの松倉山山頂に築かれた富山県最大の山城で、増山城(砺波市)、守山城(高岡市)と並び越中三大山城といわれる。1583年(天正11年)に佐々成政率いる織田軍に攻められ落城した(萩原さちこ撮影)
      松倉城は標高430.9メートルの松倉山山頂に築かれた富山県最大の山城で、増山城(砺波市)、守山城(高岡市)と並び越中三大山城といわれる。1583年(天正11年)に佐々成政率いる織田軍に攻められ落城した(萩原さちこ撮影)

     景勝がここまで窮地に陥ったきっかけは、父・謙信没後の内部抗争です。1578年(天正6年)に謙信が急死すると、残された2人の養子、景勝(謙信の(おい))と景虎(北条氏康の子)による家督争いが勃発しました。

     この「御館(おたて)の乱」は景勝が制したものの、1581年(天正9年)には恩賞をめぐって家臣の新発田(しばた)重家が反乱を起こし、春日山城内でも重臣の斬殺事件が起きるなど、上杉家はさらに錯乱状態に陥ります。信長がこの好機を見逃すわけはなく、上杉家の内部崩壊に乗じて、謙信が晩年に制圧した加賀・能登・越中などの領地を次々と攻略していました。

    • 松倉城からの眺望。市街や湾が一望できる(萩原さちこ撮影)
      松倉城からの眺望。市街や湾が一望できる(萩原さちこ撮影)

     1582年1月に新発田重家が南下して新潟を占領すると、信長による武田領侵攻もはじまり、2月には本格的に越中へ進軍してきます。3月、景勝が勝頼への援軍派遣や越中情勢の緊迫化で春日山城に足止めされているうちに、武田氏が滅亡。越中では織田方の柴田勝家、前田利家、佐々成政らが一向一揆を撃破して富山城(富山県富山市)を奪い、そのまま越後国境に向けて加勢しながら兵を進めていた最中でした。

     3月下旬には、景勝が越中防衛の拠点とした松倉城と魚津城(ともに富山県魚津市)を織田軍に包囲されます。この頃には景勝は滅亡を覚悟していたようで、玉砕覚悟で信長との決戦に向かう旨を佐竹義重宛ての書状にしたためています。5月初旬に景勝が魚津城救援のため挙兵すると織田軍も一気に動き、上野からは三国峠を越えて滝川一益が、信濃からは北国街道を北上して森長可(ながよし)が越後に迫ってきました。新発田軍のほか、柴田・前田・佐々軍、滝川軍、森軍ら織田勢に方々から攻め立てられた景勝は、まさに四面(しめん)楚歌(そか)でした。

     

     

    2016年03月28日 10時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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