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    歴史

    大河ドラマ「真田丸」の舞台(10)…備中松山城

    城郭ライター・萩原さちこ

    全国で唯一、天守が現存する山城

    • 現存する天守。岩盤上に石垣が築かれている
      現存する天守。岩盤上に石垣が築かれている

     前述の通り、備中松山城は現存する12棟の天守の中で唯一の山城です。山城とは、山全体を城地にする城のこと。中世の城は山城が主流でしたが、近世になり天守を備えるようになると、多くの城は小高い丘や平地に築かれるようになります。ですから、あえて山城を選んで天守を築くことはほとんどありません。

     山城なのになぜ備中松山城に天守があるのでしょうか。それは、中世の城から近世の城へとリフォームされた新旧ブレンドの城だからです。鎌倉時代に小さな砦として築かれ、戦国時代に一大要塞化。戦国時代には備中兵乱(ひょうらん)と呼ばれる激戦の舞台ともなって落城も経験し、城主の入れ替わりを経ながら増改築されていきました。現存する天守や二重櫓は、江戸時代に入り1683年(天和3年)に備中松山藩主2代・水谷(みずのや)勝宗(かつむね)により建てられたとされます。

    • 小松山と天神の丸を隔てる大堀切。堀切の向こうには中世の城が残る
      小松山と天神の丸を隔てる大堀切。堀切の向こうには中世の城が残る

     備中松山城のある標高約480メートルの臥牛山(がぎゅうざん)は、北から大松山、天神の丸、小松山、前山の四つの峰から構成されます。戦国時代はすべてが備中松山城でしたが、そのうち小松山だけが改造されて現在の備中松山城となっています。大松山・天神の丸に残された中世の姿も共存するのが大きな魅力で、二重櫓北側の高さ5~6メートルの堀切(山の尾根を分断する堀)を越えると、ほかの城へワープしたかのように別世界が広がります。中世の城と近世の城、一度に二つの城をめぐれるのがこの城の魅力。めまぐるしく変わる時代に応じて変化し、それぞれの時代の片鱗(へんりん)を残します。

     1873年(明治6年)の廃城令後には廃城となりましたが、あまりに高所のため破却費用すら捻出できなかったようで、そのまま放置。しかし、そのおかげで、山上で木々に守られ、戦災も免れてひっそりと生き残りました。そんな奇跡のドラマチックストーリーもある、神秘的な城でもあります。

    現存天守と二重櫓、岩盤上の石垣が見どころ

    • 装束の間。籠城時に城主一家が籠もる部屋とされる
      装束の間。籠城時に城主一家が籠もる部屋とされる

     天守は二重二階で、高さは約11メートルと現存する天守のなかで最小ですが、なんといっても日本最高所の天守ですから一見の価値があります。西側から見ると二重三階のように見えるのは、かつて渡櫓(わたりやぐら)という廊下のような建物が天守に直結していて、その連結部だけが残っているせい。付櫓(つけやぐら)のように見えるのも、扉のない素朴な入り口になっているのもこのためです。

     特徴のひとつは、内部に囲炉裏があること。装束の間と呼ばれる、籠城時に城主一家が籠もる部屋もあります。装束の間は、忍びの者も侵入できないように床下に石が詰め込まれているという工夫もされているといわれます。

    • 大手門跡付近の石垣。天然の岩盤と人工の石垣のダイナミックなコラボレーションは必見
      大手門跡付近の石垣。天然の岩盤と人工の石垣のダイナミックなコラボレーションは必見

     装束の間にある出入り口の先に通じるのが、二重櫓です。天守と同時期に建てられたとされ、天守の北側に塁線からはみ出すように築かれています。出入り口が南北に2か所あり、南側は天守に、北側は(うしろ)曲輪(ぐるわ)に通じ、中継所としての役割も担っていたようです。

     目を見張るのは、土台となる天守台と櫓台です。いずれの石垣も、剥き出しになった岩盤上に築かれています。臥牛山の岩盤は強度の高い花崗岩(かこうがん)のため、削りだしてそのまま台座として利用できるのです。城内のあちこちで見られる、天然の岩盤と人工の石垣のダイナミックなコラボレーションは圧巻。とくに、オープニング映像でも登場する大手門跡付近の石垣は見事です。

    2016年10月03日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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