刀剣乱舞で大人気、よみがえった「幻の宝刀」

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無数のホタルが傷癒やす…『太平記』時代の伝承

幻想的なホタルの乱舞(写真はイメージ)
幻想的なホタルの乱舞(写真はイメージ)

 『太平記』によれば、宮方連合軍5万騎に対し、負ければ後がない尊氏軍はわずか700騎。吉川英治(1892~1962)はいくら何でも少なすぎる、と『私本太平記』で尊氏軍を約2000騎に増やしているが、それでも劣勢に変わりはない。

 ところが尊氏軍は蒙古襲来時に築かれた防塁と、折からの強風を利用して風下の連合軍を苦しめ、連合軍は内部の裏切りもあって大敗した。『私本太平記』には、尊氏が数で劣る自軍を「味方は敵の中にある」と鼓舞する場面がある。連合軍内に、天皇方として武家の名門・足利氏と戦うことへのためらいがあることを見抜いていたのかもしれない。

 味方が総崩れになり、惟直は弟の惟成(これなり)、義弟の恵良(阿蘇)惟澄(これずみ)とともに阿蘇に退却を図ったが、惟直・惟成兄弟は追手に囲まれて肥前(佐賀県)の天山(てんざん)山麓で自害した。

 『菊池軍記』によると、惟直は惟澄に自らの大太刀を託し、惟澄は義兄の刀で追いすがる敵を切り払って何とか阿蘇に帰り着く。刀はガタガタに刃こぼれしていたが、疲れ切って眠りに就いた惟澄が、無数のホタルが飛来して刀身に集まる夢を見て目を覚ますと、大太刀の刃は元通りになっていた。以来、大太刀は「蛍丸」と呼ばれるようになったという。

刀身やせて刃こぼれも、熾烈極めた一族抗争

 惟直らが追手に追いつかれる状況になるまで多々良浜に残り、太刀が刃こぼれするまで戦ったのはなぜか。理由が推測できる、もう一つの伝承がある。阿蘇神社に残る起請文(写し)によると、惟直自害の際、錦の袋に入れて肌身離さず持っていた後醍醐天皇の綸旨(りんじ)も谷底に落ちたが、地元の領主の夢枕に阿蘇大明神が再三現れて「綸旨を返せ」と告げたため、探し出されて阿蘇に戻されたというのだ。

 阿蘇一族は鎌倉幕府打倒のため京都や関東の合戦にも参加し、後醍醐天皇はその働きを高く評価して、綸旨で阿蘇氏に阿蘇郡一円の幅広い支配を認めていた。宮方が負ければ、それが反故(ほご)になりかねない。だから阿蘇一族は最後まで戦ったのだろう。

 神がかりの伝承は「大宮司が自害する大敗はしたが、綸旨が神のご意思で阿蘇に戻った以上、引き続き阿蘇は一族のものだ」というメッセージとも読める。蛍丸の伝説も、一族の武力の象徴をよみがえらせることで、阿蘇氏の健在ぶりをアピールするためにできた話かもしれない。

日本刀を手にする刀匠・福留裕晃さん。「蛍丸」の復元にも尽力した
日本刀を手にする刀匠・福留裕晃さん。「蛍丸」の復元にも尽力した

 ただ、惟澄以降の阿蘇一族は北朝方と南朝方に分かれて争うようになる。武力と領土のシンボルだった蛍丸と綸旨をめぐる争奪戦もあったようだ。

 江戸時代中期に蛍丸を鑑定した肥後藩士の松村昌直によると、梵字(ぼんじ)の刻印がすり減り、相次ぐ研磨でやせ細って、切っ先には刃こぼれがあった。南北朝の争乱以降、刃渡り1メートル超の大太刀を持てる大将クラスの武将が、合戦の最前線に立つことはまずなかったから、やせ細った刀身は蛍丸が一族内の血で血を洗う抗争で使われた可能性を示している。

 ちなみに宮崎県には、豊臣秀吉(1537~98)の九州平定戦で敗れた落ち武者が暗闇に隠れていたところ、腰に差していた「蛍丸」という刀が光を放ち、見つかって首をはねられたという伝承がある。阿蘇神社の蛍丸とは別の刀のようだが、なぜか「蛍丸」はここでも敗者が持つ悲劇の刀として登場する。

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9294 0 深読み 2018/02/26 20:45:00 2018/02/26 20:45:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180205-OYT8I50024-1.jpg?type=thumbnail

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