だから明智光秀はキレた?本能寺の変「珍説」の真相

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鑓で脅す、頭を強打…「衝突説」は数多く

京都市役所の近くにある現在の本能寺。信長が討たれたのは南西に約1キロ離れた地で「本能寺跡」の碑が立つ
京都市役所の近くにある現在の本能寺。信長が討たれたのは南西に約1キロ離れた地で「本能寺跡」の碑が立つ

 カツラはないとしても、光秀は金柑(きんかん)というあだ名があったと思っている人は多い。

 司馬遼太郎の『国盗り物語』に、初めて光秀と対面した信長が「頭が小さくてさきがとがり、地肌に赤みを帯びたつやがあって、みればみるほど金柑に似ていた」と思うくだりがあり、昨年の大河ドラマ『おんな城主直虎』でも、市川海老蔵さんが演じる信長が、光石研さん演じる光秀を「この金柑!」と罵倒するシーンがあった。

 金柑は中国原産で、日本で今、主に栽培されている「ニンポウキンカン」は1826年(文政9年)に静岡沖で難破した中国船がもたらしたとされ、先がとがった「ナガミキンカン」は江戸時代前期の渡来とされる。室町時代前期に書かれたとみられる『庭訓往来(ていきんおうらい)』にはすでに「金柑」の名前があり、「マルキンカン」は信長が目にしていてもおかしくはないが、その名の通り、先がとがっているものは少ない。

 光秀が信長から金柑と呼ばれていたというのは、16世紀末に書かれたとされる『義残後覚』のこの話が基ではないか。

 「庚申待(こうしんまち)」という特別な日の夜、信長が家臣20人ほどを集めて徹夜で酒宴を開いた。途中で光秀は小用に立ったところ、信長は広間にあった(やり)(さや)を引き抜いて光秀を追いかけ、『金柑頭、なぜ席を立つのだ』と、光秀の首に鑓の刃先を当てて詰問した。光秀は弁解したが、信長はなかなか許さなかった。信長は座興のつもりだったが、光秀は、信長が自分を亡きものにしようという本心の表れと感じ、謀反を考えるようになった」

 『義残後覚』は妖怪や超能力者も登場する寓話(ぐうわ)集で、この話も作り話だろう。光秀が「金柑」と呼ばれていた確たる証拠はどこにもないのだ。

 では、後世の作家が光秀の頭髪を薄く見立てて、金柑頭というあだ名をつけたのはなぜか。「光秀」の2字をあわせると「禿」という字になるからだ、いう説まであるようだが、何か意図があるのではないか。実は、本能寺の変が起きた1582年に信長と光秀が衝突したという逸話はほかにもあり、そこには奇妙な共通点があるのだ。

俗書の不思議な一致点

安土城跡(滋賀県)。武田氏滅亡後、ここで信長が徳川家康一行をもてなしたとされる
安土城跡(滋賀県)。武田氏滅亡後、ここで信長が徳川家康一行をもてなしたとされる

 『祖父物語』には、3月に甲斐・信濃遠征の首実検が行われた際、光秀が「われら長年にわたって骨折りしたかいがあった」と漏らし、それを聞きつけた信長が激怒して「お前がどれほどのことをしたのか」と、光秀の頭を欄干に叩きつけた、とある。

 5月には徳川家康の一行が駿河拝領の礼に安土を訪れ、光秀はその接待役を命じられた。『明智軍記』には、信長が「金を使いすぎる」と怒って小姓の森乱丸に扇の要で光秀の額を血が滴るほど打たせた、というくだりがある。

 『川角太閤記』によれば、接待の下見のため、抜き打ちで光秀邸を訪れた信長が魚が腐ったような異臭に気づき、「これでは接待役など務まらぬ」と光秀を罷免し、面目を失った光秀は取り寄せた器や食材を堀に投げ捨てたという。

 『祖父物語』『明智軍記』『川角太閤記』も俗書で、これらはいずれも作り話とみられる。ただ、『稲葉家譜』のカツラが落ちた話、『義残後覚』の庚申待の夜の話も含め、どの話でも信長が理不尽極まりない言いがかりをつけ、光秀がひどい辱めを受け、その多くで信長が狙っているのが光秀の頭部であることは、偶然の一致だろうか。

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8449 0 深読み 2018/02/21 05:20:00 2018/02/21 05:20:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180215-OYT8I50034-1.jpg?type=thumbnail

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