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    文化

    「信教の自由」の扉開いた流刑地の隠れキリシタン

    読売新聞調査研究本部主任研究員 榊原智子
     明治維新150年の今年、新政府をめぐる再評価が盛んだ。しかし、神道国教化を掲げ、当初は他宗教を弾圧した新政府がその後、「信教の自由」容認へとカジを切った背景に、長崎のキリシタン農民による集団抵抗があったことはあまり知られていない。禁教を生き抜いたキリシタンの存在は、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙―サイレンス」(2017年)や、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録推薦などで関心を集めている。近代日本が経験した「心の自由」獲得への道のりで、彼らが担った歴史的役割も記憶しておきたい。

    長崎のキリシタン153人、津和野に流刑

    • キリシタン農民への弾圧が行われた乙女峠。1月末に訪れると、峠も「マリア聖堂」も雪に包まれていた。過酷な流刑生活に耐えた当時がしのばれる
      キリシタン農民への弾圧が行われた乙女峠。1月末に訪れると、峠も「マリア聖堂」も雪に包まれていた。過酷な流刑生活に耐えた当時がしのばれる

     山陰の小京都として知られる島根県津和野町の町外れに、今は観光名所となっている乙女峠がある。1868年(明治元年)に長崎でキリシタン農民が大量検挙され、流刑に処せられた先の一つが津和野藩だった。乙女峠にあった古寺に計153人の農民が収容され、厳しい迫害により37人の老若男女が殉教した。

     冬の終わりに雪の乙女峠に登った。牢屋(ろうや)として使われた古寺は既になく、公園として整備された敷地の隅に小さな「マリア聖堂」がたたずんでいた。聖母マリアと殉教者を記念して1951年に建てられた聖堂で、毎年5月3日には国内外から数千人の巡礼者が集まり、殉教者の堅信と遺徳をしのぶ「乙女峠まつり」が行われる。

     ひっそりと静かで美しいこの山あいの地が、明治初期に信教の自由をめぐる壮絶な闘いの最前線となった歴史を振り返ってみよう。

     近代国家の樹立をめざした明治新政府が、富国強兵を掲げる陰で、対応に苦慮した課題の一つが宗教だった。江戸幕府が1612年に切支丹(きりしたん)禁令を掲げて以来、200年以上に及んだ鎖国時代はキリスト教排斥が続いた。王政復古と神道による思想統一をめざした明治新政府も当然のようにこれを継承し、明治元年、「切支丹宗門禁制」の高札を改めて掲げた。だが、これにより、「近代文明国」をめざしながら「信教の自由」を禁じるという国策上の矛盾を抱えることになった。はたして、この高札にすぐさま、英国、フランスなど西欧各国の外交団から「我々が信仰するキリスト教を邪宗というのか」と一斉に抗議が起き、外交問題化することになる。

     問題が最も先鋭化した形で表れたのが、16世紀からキリシタンの町として発展し、禁教でも信仰を続けた隠れキリシタンの農民が多くいた長崎だった。長崎では幕末の1865年、外国人用にカトリック教会・大浦天主堂が建立されると、そうした農民のなかから「自分たちは先祖代々のキリシタンだ」と公然とカミングアウトする人が出てきて幕府を慌てさせた。その処分が決まらないまま明治維新となったことで、新政府は初年からこの問題への対処を迫られたのだった。

     神道の国教化をめざす新政府にとって、キリシタンを容認する選択肢はありえなかった。結局、集団でカミングアウトした浦上村(現・長崎市)のほぼ全村民3394人を、津和野藩など20藩へ預託する流刑を1868年と70年に断行した。各地で拷問により死亡した殉教者は計662人に上った(月刊誌『カトリック生活』2014年5月号による)。

    2018年04月15日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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