「柔道の父」と宮本武蔵、「二刀流」が結ぶ数奇な縁

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「五輪」の通称も武蔵に由来

熊本大学体育館前にたつ嘉納の碑。道場に飾られた嘉納の「順道制勝 行不害人(道に従えば勝ちを制し、行いて人を害(そこな)わず)」の書が刻まれている
熊本大学体育館前にたつ嘉納の碑。道場に飾られた嘉納の「順道制勝 行不害人(道に従えば勝ちを制し、行いて人を害(そこな)わず)」の書が刻まれている

 嘉納は柔道以外にもスポーツの発展に尽力し、「日本の体育の父」とも呼ばれる。体育教師を育成し、学校での課外活動にスポーツを取り入れた。東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員も務め、1940年(昭和15年)の第12回オリンピックの東京招致に成功した。

 この招致合戦を取材した読売新聞記者の川本信正(1907~96)が、新聞の見出しを短くするために生み出したのが「五輪」という言葉だ。川本は『昭和史探訪』で、たまたま菊池寛(1888~1948)が雑誌に書いた武蔵の『五輪書』の随筆を読んで「これだと思った」と書きのこしている。

「いだてん」金栗四三も嘉納が見いだす

 オリンピックと言えば、来年の大河ドラマ「いだてん」の主人公で、日本初のオリンピック選手である金栗四三(かなくりしそう)(1891~1983)を見いだしたのも嘉納だ。東京高等師範の学生だった金栗は学校のマラソン大会で好成績をおさめ、嘉納に激賞されて本格的に陸上を始める。嘉納と二人三脚で予選を勝ち抜き、3度もオリンピックのマラソンを走った。

 オリンピックではリタイア2回と16位という成績に終わったが、マラソンの普及・振興に努め、マラソンの父と呼ばれた。金栗も熊本県出身で、引退後は初代の県教育委員長を務めている。

 嘉納が招致した東京大会は国際情勢の悪化で開催されなかったが、1964年(昭和39年)に開催された東京大会では柔道が正式競技となった。だが、その大会の無差別級ではオランダのアントン・へーシンク(1934~2010)が金メダルを獲得し、「お家芸」での敗北は大きな衝撃を与えた。梶原一騎のスポ根漫画『柔道一直線』は、この敗戦を起点に描かれている。東京オリンピックは柔道の国際化をさらに進める契機となり、「競技に偏り、精神修養が忘れ去られているのではないか」という議論のきっかけにもなった。

 次の東京オリンピックに向けて柔道をどう強化し、発展させていくかは、全日本柔道連盟会長とオリンピック選手強化責任者を兼ねる山下泰裕さんが担っている。一方、嘉納の思想を引き継ぐのは講道館館長の上村春樹さん。奇しくもこの二人も「やわらどころ」熊本県の出身だ。

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20327 0 深読み 2018/05/02 16:00:00 2018/05/02 16:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180502-OYT8I50001-T.jpg?type=thumbnail

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