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    文化

    没後70年、作家・太宰治を生んだ「三つの空白期」

    読売新聞編集委員 鵜飼哲夫

    小説を書かなかった「三つの空白期」とは

    • 太宰の生家「斜陽館」(2011年12月25日撮影)
      太宰の生家「斜陽館」(2011年12月25日撮影)

     故郷・青森県の蟹田町(現・外ヶ浜町)に1956年(昭和31年)に建てられた文学碑には、太宰の「正義と微笑」の一節、「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった」が刻まれている。代表作「人間失格」の主人公・大庭葉蔵も、道化によって他人を笑わせる人物で、実はサービス精神の塊である。

     死を前にした晩年の小説には、「子供より親が大事、と思いたい」(「桜桃」から)、「家庭の幸福は諸悪の本」(「家庭の幸福」から)など、心中という結果から見ると、破滅型で、無頼な文章が目立つ。しかし、作品をよく読むと、子どもを育てる甲斐性(かいしょう)も自信もない主人公が、家を飛び出し、酒場に逃げて、子どもたちに食べさせたらさぞ喜ぶであろう桜桃を、食べては種をはき、食べては種をはき、「子供より親が大事」と心の中で虚勢みたいにつぶやく、なんとも弱い人間の困った姿をユーモラスに書いている。

     津軽の新興地主の家に生まれ、金木村(現・青森県五所川原市)の尋常小学校時代、「全甲」を通し、エリート校の旧制青森中学(現・県立青森高校)でも成績はトップクラスだった太宰治(本名・津島修治)の幼少年時代は、陽気で明るかったが、決して弱い性格ではなかった。母親が病弱で、乳母や叔母、子守に育てられたため、母の愛を渇望していたが、文学好きな兄たちに囲まれ、何不自由ない生活をしている。いたずら好きで、自分で脚本を書いては家でミニ芝居をし、家族たちを楽しませる少年で、高等小学校時代の(つづ)り方では県下でも有数の豪邸に生まれ育った自分について、無邪気に「無上ノヨロコビデアル」と書いている。太宰は、親元を離れて暮らした旧制青森中学生の頃から、親の金で同人誌を発行し、創作を始め、自尊の精神とそれが破れるさまをコント風に描く小説で同級生たちをあっと言わせていた。

     そんな太宰には、ほとんど小説を書かない三つの空白期間があった。空白の期間を経るたびに太宰は、私たちが知る作家へと脱皮していった。

     第1の空白は、旧制弘前高校に1927年(昭和2年)に入学してからの1年間であり、翌年5月に「無間奈落」を発表するまで一つも創作を発表していない。第2の空白は、30年(同5年)に東京帝国大学文学部仏文科に進学後、「学生群」を7月から11月まで連載してから、33年(同8年)2月に、太宰治のペンネームで初めて書いた小説「列車」を発表するまでの2年以上の長いブランクである。そして、第3の空白は、鎮痛のために使ったパビナールという薬の中毒になり、治療のため36年(同11年)10月、精神科病院入院という「人間失格」体験を経てからの1年半ほどである。その「空白」期間に起きた別離と挫折を経るたびに成長し、「弱くて明るい太宰」が誕生していく。

     第1の空白では、高校入学直前に貴族院議員だった父・津島源右衛門の死に見舞われ、高校1年の夏、作家・芥川龍之介の自殺に遭遇した。エリートであり続けることを期待する父の死は、悲しみではあったが、自由への一歩だった。そして、敬愛した作家・芥川の自殺が新聞で騒がれ、作家という存在がクローズアップされたことは、優等生という道から、親兄弟が反対する作家への道を歩ませる大きなきっかけとなった。

     事実、太宰は、芥川の死の直後から突如、芸者遊びを始め、優等生の道から外れ、翌28年、同人誌「細胞文芸」を創刊。創作を再開してからは、文体をがらりと変え、当時流行していたプロレタリア文学を意識した長編に取り組み、地主階級の実家を批判する内容が主流となった。しかし、もしここで、太宰が時流に乗るような作家だったら、後年の太宰治の誕生はなかった。「創作ハ技芸ナリ」という考えがある太宰には、「マルクス主義の宣伝文に過ぎない」という疑念があるプロレタリア文学にはなじめず、長編はすべて中絶している。当時、学生の多くが参加した社会主義運動にもなじめずに芸者遊びを繰り返し、成績は急降下していった。

    2018年06月11日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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