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    文化

    没後70年、作家・太宰治を生んだ「三つの空白期」

    読売新聞編集委員 鵜飼哲夫

    「私の生涯の黒点」…衝撃的だった第2の空白

     そんな矛盾が露呈したのが、東京帝大に入学した年に始まる第2の空白だ。非合法運動への関与、芸妓(げいぎ)・小山初代との結婚問題で、それに反対する実家の怒りを買い、分家除籍処分を受けたことが、事の始まりだった。さらに、その絶望から銀座のカフェの女性従業員と心中を図り、女性だけを死なせる事件を起こしてしまい、言葉を失う。この空白時代について、太宰は小説「東京八景」で、〈阿呆(あほう)の時代である〉と書いている。大学にはほとんど通わず、ぐずぐずと左翼運動をつづけ、自らが〈私の生涯の、黒点である〉という心中事件の痛みを抱え続ける。

     この苦闘の空白の2年を経た太宰は、ようやく左翼運動から離脱し、1933年(同8年)、太宰治のペンネームを使った随想「田舎者」を発表する。もはや地方の名家の生まれであるという自負も、優等生であるという自尊もなく、「私は、青森県北津軽郡というところで、生れました。(中略)何をかくそう、私は、もっとひどい田舎者なのであります」と書いている。

     そうして生まれたのが、幼少年時代を叙情的につづった記念碑的な作品「思い出」だった。その後、心中事件を見つめた「道化の華」で、同世代の作家から「天才」と騒がれ、「逆行」では35年(同10年)の第1回芥川賞の候補にもなった。しかし、これで順風満帆とならないのが太宰である。過去の優等生という栄光、自尊心、地主の子という自負をなげうっても、自分は「天才」の小説家という自負の念だけは捨てることができなかったのである。

    • 太宰が佐藤春夫に宛てた、芥川賞を懇願する長さ約4メートルの毛筆の手紙(東京・渋谷区の実践女子大学で、2015年9月7日撮影)
      太宰が佐藤春夫に宛てた、芥川賞を懇願する長さ約4メートルの毛筆の手紙(東京・渋谷区の実践女子大学で、2015年9月7日撮影)

     その頃の太宰の口癖は、「傑作を一つ書いて死にたいねえ」であり、檀一雄ら親しい文学仲間と話すときには、「ゲーテの処女出版が幾つの年、チェホフが幾つの年、芥川が幾つの年」と、いちいち数え上げていたという。もはや芥川は雲の上の存在ではなく、その名を冠した芥川賞は是が非でも欲しかった。しかし、落ちた。しかも、選考委員の川端康成からは、「作者、目下の生活に(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる(うら)みあった」と評された。

     当時の太宰は、虫垂炎の手術で腹膜炎となり、鎮痛のために使ったパビナールで中毒にかかり、被害妄想が激しく、薬代のために友人らから多額の借金をして生活が荒れていた。あまりにも図星といえる指摘をした川端には、「刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と怒りの文章を書いた。が、その後、川端に「私に希望を与えて下さい 老母愚妻をいちど限り喜ばせて下さい 私に名誉を与えて下さい」と約4メートルもの巻紙で芥川賞を懇願する手紙を送っている。同じように、芥川賞を懇願する4メートルあまりの毛筆の手紙を選考委員だった佐藤春夫にも送っている。

    2018年06月11日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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