人間味あふれる「将棋指し」がいた時代

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後輩にも気合で挑みかかった「大名人」

中原誠十六世名人。対局中の「気合」は対戦した人にしかわからない
中原誠十六世名人。対局中の「気合」は対戦した人にしかわからない

 世間一般のイメージと盤をはさんで対局した時のギャップが一番大きいのは、中原十六世名人かもしれない。泰然自若といったイメージとは全く違う勝負師の顔を見せる。

 「中原先生は序盤、中盤、終盤とスキがない。一手一手、すごく力を振り絞って指してこられたという印象がありました。一手指すたびに、勝ちたい、勝ちたいと叫んでいるような感じです。

 その当時、常に最善手を指そうと考えている棋士は多くはありませんでした。それよりも、自分の指したい手、良さそうな手を指して最後に勝つという考えの人が多かったと思います。要するに、考え方がおおざっぱだったのです。中原先生は絶対に間違えない、一番いい手を指してやる、という感じできていました。

 私も中原先生と対局したことがありますが、年が20歳以上離れていて、こちらはペーペー。こんな後輩を相手に大名人がこれほど気合を入れて将棋を指すのかと、びっくりしました。よく見ると、全員に対して同じように気合を入れて指しているんですね。名人戦の時は、さぞかしすごかっただろうと思います」

豪快「マキ割り流」、負けた棋士は翌日……

真部一男九段。佐藤大五郎戦に負けた翌日、将棋連盟で駒を動かしながら対局を振り返っていたという
真部一男九段。佐藤大五郎戦に負けた翌日、将棋連盟で駒を動かしながら対局を振り返っていたという

 かつての将棋界には、棋士というより「将棋指し」と呼んだ方がいいような人がたくさんいた。「マキ割り流」の佐藤大五郎九段もその一人だろう。「マキ割り流」は力強く、破壊力抜群の佐藤の将棋の特徴を表したものだ。

 「昔型の『将棋指し』、それに尽きる感じの豪快な人でした。(プロ棋士の養成機関である)奨励会にいた時代から、ずっと詰め将棋ばかりやっていました。まあ、定跡(先人が築き上げた指し方)も多少は勉強したでしょうけど、基本的には詰め将棋ばかり。当時は、勉強方法も非常に限られていましたからね。

 将棋は四間飛車(飛車を左から4番目の筋に移動させて戦う戦法)が多く、終盤で追い込んでいく将棋でした」

 1984年3月12日、佐藤が真部一男七段(当時)と指した昇降級リーグ1組の対局は、知る人ぞ知る名局だ。いつものように四間飛車を採用した佐藤に対し、真部は戦いを優位に進める。佐藤が必死に追い上げ、手に汗握る攻防が繰り広げられた。深夜の戦い、あと少しで真部が勝つと思われた局面で大どんでん返し。佐藤が劇的な勝利を収めた。

 当時、奨励会員だった先崎九段が翌朝、将棋連盟に顔を出すと、敗れた真部はまだ盤の前にいた。

 「真部先生は前の日の将棋を並べ返していました。棋士が来たら、ゆっくり一手一手、解説してくれました。私だけでなく、他の奨励会員にも。後にも先にもそんな光景は見たことがありません」

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