覇王信長も恐れた?「正倉院」1200年の奇跡

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火災、盗難…幾多の危機を乗り越え

『正倉院 歴史と宝物』(中公新書)などの記述をもとに作成
『正倉院 歴史と宝物』(中公新書)などの記述をもとに作成

 とはいえ、われわれの祖先がすべての宝物を守れたわけではない。むしろ多くの宝物は焼失や破損の危機と隣り合わせだった。正倉院から持ち出されて行方不明になったままの宝物もたくさんある。

 正倉院は台風の襲来や大雨などで何度も破損している(別表)。湿気に強いとされる校倉造だが、宝物が湿気にやられたとの記録もある。鎌倉時代には落雷で壁から出火し、地元の人が間一髪で消し止めたこともある。すでに自衛消防隊のような組織があったとみられる。

 自衛では防ぎようがない戦火の脅威にもさらされた。隣接する東大寺の大仏は何度も戦火で焼けている。特に、1180年(治承4年)に大仏殿を焼いた平重衡(1157~85)の南都焼き打ちでは、正倉院のすぐそばまで炎が迫った。この時は以前の火災で南側の倉庫が焼失し、火()けの空き地があったことで類焼を免れたとみられる。

今年の出展宝物の一つ「平螺鈿背八角鏡」
今年の出展宝物の一つ「平螺鈿背八角鏡」

 盗賊に入られたことも、記録に残るだけで3度あった。今年の正倉院展のポスターになっている「平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう)」も、1230年(寛喜2年)に盗まれている。正倉院では雨漏りを修理するため宝物の一部を移し、多くの人がそれを目にした。修理の3か月後、倉の上に登って鍵の根元を焼き切って盗賊が侵入した。

 1か月後に捕まったのは僧侶2人で、主謀者は元東大寺の僧だった。白銅を銀と勘違いして鏡を8面盗み出し、細かく砕いて京都で売り払おうとしたらしい。銀ではなかったのでろくな値が付かず、破片は奈良に持ち帰って大仏殿の前の神社に隠していた。

 この鏡は唐で作られ、裏面の装飾には南方の海で取れた螺鈿(らでん)(ヤコウガイ)や玳瑁(たいまい)、ミャンマー産の琥珀(こはく)、イラン周辺のトルコ石を配したシルクロードの至宝だ。東大寺の僧なら、正倉院の宝物の価値は分かっていたはずだが、この年は豪雨と冷夏で大凶作となり、日本最悪といわれる「寛喜の飢饉」が起きていた。飢餓のさなかにきらびやかな宝物を見て、伝統の重みより明日の暮らしを優先してしまったのだろう。

盗まれた宝物が散逸しなかった理由

 盗賊が入った記録は1039年(長暦3年)と1610年(慶長15年)にもあり、いずれも犯人は正倉院をよく知る僧侶だった。3度の盗難は、皮肉なことに宝物の点検や災害で傷んだ倉の修理で、宝物が倉から出された後に起きている。

 宝物を守るための措置が大がかりになるほど人々は宝物の存在を思い出し、盗難を誘発する。こうした負の史実も直視しなければ、それでも残った正倉院宝物のすごさは分からない。いずれも犯人が捕まり、宝物が戻っているのは、名品ゆえに売りに出るとすぐに(うわさ)が立ち、足がつきやすかったためだろう。宝物を守ったのは、世界に二つとない宝物だったから、ともいえる。

 ちなみに、回収された鏡の破片がつぎはぎされて修復されたのは明治時代だった。職工の腕が良すぎて、専門家でも一見しただけでは奈良時代の制作部分との区別がつかないという。確かな修理ができるまで600年をかけるというのも、いかにも正倉院らしい話だ。

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47660 0 深読み 2018/11/03 07:00:00 2018/11/03 07:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20181101-OYT8I50055-T.jpg?type=thumbnail

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