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    文化

    実は兄以上の英傑?西郷どんイジメた上司の素顔

    読売新聞編集委員、BS日テレ「深層NEWS」キャスター 丸山淳一
     天敵・諸葛孔明の没後、その木像に ( だま ) され退却した司馬仲達は真相を知ってうめいた。「死せる孔明、生ける仲達を走らすと噂されるのだ。百年先までも」――。三国志を描いた中国のテレビドラマの一場面だ。ドラマの仲達の予想をはるかに超えて、この逸話は1800年後の現代まで語り継がれてきた。後々まで続く不名誉な評判に、泉下で顔をしかめているであろう著名人はわが国にも少なくない。今回は、明治維新に貢献した英傑でありながら、正反対の評価が定着してしまった実力者を紹介する。

    「島津久光は凡庸」に異議あり!

    • 幕末に活躍した島津斉彬(イラスト左)と久光(同右)の異母兄弟。「賢兄愚弟」の評判が定着しているが…
      幕末に活躍した島津斉彬(イラスト左)と久光(同右)の異母兄弟。「賢兄愚弟」の評判が定着しているが…

     NHK大河ドラマ『西郷どん』も明治編に入り、西郷隆盛(1828~77)が薩摩(鹿児島県)に戻るなど、終盤を迎えつつある。ドラマで描かれたエピソードをもとに、明治維新の立役者たちについては、これまでも何本か記事を書いてきた。

     『西郷どん』で最後に取り上げたいのは、西郷を見いだして育て、維新の立役者に押し上げた“上司”の話だ。と言っても、下級武士だった西郷を今でいう秘書官に相当する「御庭方」に抜てきした「幕末の四賢候」のひとり、島津斉彬(なりあきら)(1809~58)ではなく、注目したいのは異母弟の久光(ひさみつ)(1817~87)だ。

     幕末の薩摩藩といえば、開明政策を推し進めたカリスマ君主の斉彬ばかりが名君とされ、久光は凡庸な人物とみなされてきた。『西郷どん』で描かれる久光もその例外とはいえない。 

     だが、久光は、歴代の薩摩藩主が積み重ねてきた恩讐(おんしゅう)を乗り越えて斉彬の路線を引き継ぎ、敵対していた西郷を要職に据えて明治維新を成し遂げた。久光が乗り越えた過去を知れば、凡庸な人物にはできないことが理解できるはずだ。

     その始まりは、徳川11代将軍家斉(いえなり)(1773~1841)の岳父として「高輪下馬」と称されるほど権勢を振るった8代藩主の島津重豪(しげひで)(1745~1833)にさかのぼる。西洋文化に関心を寄せた重豪は西洋文化を好む「蘭癖(らんぺき)大名」で、金を惜しまず開明的な政策を進めた。藩校の造士館や天文観測所(明時館)の建設費に将軍家との縁組みによる婚礼・交際費が加わって、藩の借金は500万両(現在の貨幣価値で5000億円)にも膨れ上がった。

    開明派VS堅実派…激化した身内の争い

    • (注)点線は養子。藩主以外の名の左側は分家の祖を示す
      (注)点線は養子。藩主以外の名の左側は分家の祖を示す

     9代藩主の斉宣(なりのぶ)(1774~1841)は藩の財政再建を進めようとしたが、重豪は「近思録崩れ」と呼ばれるお家騒動のあげく、斉宣を強制隠居させてしまう。重豪は孫の斉興(なりおき)(1791~1859)を10代藩主に据え、その後見人として藩政を牛耳り続けた。重豪が死去し、斉興が実権を握ったのは、藩主に就任してから24年も後だったが、晴れて藩主になっても、重豪が残した負の遺産の処理に忙殺された。

     後継ぎの斉彬は重豪のお気に入りで、重豪はまだ4歳だった斉彬を将来の藩主に指名し、蘭学や洋学の手ほどきをしていた。斉彬を藩主にすれば「蘭癖」で藩の財政が再び危機に陥りかねない。斉興は跡目を斉彬ではなく、保守的で堅実だった久光に継がせようとした。

     正室の子に生まれ、早くから英明の誉れが高かった斉彬に対し、久光は側室のお由羅の方との間に生まれた第五子で、幼少期には家臣の種子島家に養子に出されている。幕府は斉彬をさしおいて久光を藩主にすることを許さなかった。斉興は藩主に居座って抵抗し、斉興派と斉彬派の対立で再び「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動が起きたあげく、斉彬は43歳でようやく11代藩主に就任した。

     幕府から“隠居勧告”を受けて渋々藩主を退いた斉興は、なお復権をあきらめなかった。隠居する4日前には久光に密書を送り、斉彬について「疑り深く、小賢(こざか)しい」「肝が小さい」「役に立たない物を好む」などとこきおろした上で、久光に反斉彬派の動向を報告せよと命じている。

     

    2018年11月22日 19時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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