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「カネが絡むと人は変わる」と俗に言う。戦国の名将にして優れた国主でもあったと伝えられる武田信玄は、出征費用を賄うため領民に過酷な税を課した。一方、主君を裏切り、天下を奪おうとした明智光秀は、寛大な税政で民衆を喜ばせたという。その真意はどこにあったのか。
やめられなくなる「人気取り」

燃料税の引き上げ反対デモが暴動にまで発展したフランスで、マクロン大統領が大規模な低所得者層に対する支援策を発表した。最低賃金を引き上げ、残業代を非課税とするほか、年金生活者の社会保障関連税の引き上げも見送り、年末のボーナスは非課税扱いにするという。
フランスでは黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)をまとった人々が毎週末に反政府デモを繰り返し、一部が暴徒化して商店の破壊や略奪行為を繰り返していた。きっかけとなった燃料税の引き上げを撤回してもデモは収拾せず、さらなる譲歩を強いられた格好だ。
この問題を取り上げた「深層NEWS」に出演した小野寺五典・前防衛相は「デモが激化すると燃料税の凍結や撤回を表明して譲ったことで、デモ隊側はもっとデモをやればもっと(成果が)取れるのではないかと考え、どんどん深みにはまっていった」と、マクロン大統領の対応のまずさを指摘した。
暮らしに直結する税制には「公平・中立・簡素」の3原則がある。しかし、為政者はともすると取りやすいところから取り、人気取りの減税に走りたがる。一度打ち出した減税は既得権益となり、やめられなくなる。日本にも前例は多々ある。明智光秀(?~1582)が打ち出した大減税が、その典型だ。
四面楚歌に焦り?“住宅税”を永久免除

1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変で織田信長(1534~82)を倒した光秀は、近江(滋賀県)をほぼ平定して6月9日に安土から上洛すると、京都洛中の町民の地子銭を永久に免除すると表明した。地子銭は家の間口の広さに応じて課税される都市住宅税で、災害復興や城下町の発展を促すため免除されることはあったが、当時日本一の大都市だった京都の地子銭を永久に免除する、というのは破格の大減税だ。信長も足利義昭(1537~97)を追放する際に
光秀は領地の福知山城下でも地子銭を免除している。桑原は、7年間にわたって信長と義昭の下で京都奉行を務め、戦国の争乱で何度も町を焼かれた町民の苦しみを知っていただけに、光秀は以前から「信長を倒したら京都でも」と以前から温めていた政策だった、と分析している。

だが、光秀は同じ9日に朝廷や京都五山、大徳寺などに計1200枚もの銀子を献上し、長年の盟友である細川藤孝(1534~1610)と娘婿の
「恩賞として摂津(大阪府)を与えようと思って上洛を待っていたが、但馬(兵庫県北部)、若狭(福井県南部)、他の領地も欲しいなら与える。思いがけないこと(謀反)を考えたのは、与一郎(忠興)を取り立てようとしたからだ。50日か100日のうちに近国を平定したら十五郎(嫡子の光慶)や与一郎に政権を引き渡して隠居するつもりだ」
文面からは、光秀が相当追い込まれていたことが読み取れる。書状は後世に加筆された疑いもあるが、藤孝・忠興父子が協力を拒んだのは、光秀にとって大きな誤算だったことは間違いない。変後の京都は治安が乱れ、朝廷は何度も善処を求めていた。羽柴(豊臣)秀吉(1537~98)が予想をはるかに上回る速さで中国から迫りつつあるという情報が届いていた可能性もある。そんな中で表明された大減税は、窮余の人気取りと見る方が自然だろう。