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新ホーム完成「飯田橋駅」、昔は2つの駅だった

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7月12日に開業した飯田橋駅西口新駅舎(編集部撮影)

7月12日、中央・総武線各駅停車の飯田橋駅に新しい西口駅舎がお目見えした。千代田区・文京区・新宿区の3区にまたがるように立つ同駅は、この西口駅舎のリニューアルオープンと同時にホームが約200m西側へと移設した。

これまで飯田橋駅のホームは半径300mのカーブ上にあったため、停車している電車とホームの間に大きな隙間が生じる。そのため、乗客が電車とホームの隙間に転落するなどの危険性が日頃から指摘されていた。今回の工事はホームにおける利用者の安全性を向上させる目的だが、ホームが新宿側に200m寄ったことで、鉄道ファンや郷土史家、地元民からは「牛込駅の復活!?」といった声も出ている。

「牛込駅」はどこにあった?

飯田橋駅の成り立ちは複雑で、開設当時は飯田町駅という駅名だった。飯田町駅は今の飯田橋駅よりも東側にあり、市ケ谷駅との間には「牛込駅」という駅があった。今の飯田橋駅西口付近にあたる。

従来より約200m西側に移動した飯田橋駅の新ホーム(編集部撮影)

飯田町駅や牛込駅を開業させたのは、甲武鉄道という私鉄だった。甲武鉄道の“甲”は甲州、武は“武州(武蔵)”、つまり、甲武鉄道は東京と山梨とを結ぶ目的で建設された。1889年、新宿駅と立川駅間が開業。その後、当初の目的だった八王子駅まで開業する。

社名からもうかがえるように、本来なら甲武鉄道は八王子駅から西進するはずだった。しかし、八王子より西側は山が険しく、鉄道の建設は困難が予想された。また、人家が少ないので採算も不透明だった。そうした事情から、甲武鉄道は西進を後回しにして需要が見込める東京の都心部への進出を検討した。しかし、新宿駅から都心部へ進出するには、外濠という大きな壁が立ちはだかった。

最終的に甲武鉄道は外濠を利用して線路を敷設するが、これには明治政府からの反対も根強かった。陸軍の重鎮である川上操六の助力から甲武鉄道は都心部の進出を実現。1894年に牛込駅まで、翌年には飯田町駅まで開業した。当時の電車は1両編成。牛込駅と飯田町駅が近接していても、さして問題にはならなかった。しかし、電車が長大編成化していけば、どちらかの駅が不要になることは明らかだった。

現在、山手線の内側は高層ビルが立ち並び、東京の中心部として発展している。しかし、甲武鉄道が飯田町駅を開設した頃は違った。飯田町駅より内側が東京の中心とされ、飯田町駅は東京の外縁部。平たく言えば、場末だった。それは、当時の地図を眺めてもうかがえる。

箱館の五稜郭で抗戦をつづけた幕府軍の総大将・榎本武揚は、明治の新政府内でも重用された。明治政府は、国民皆兵を掲げて徴兵制を導入。これにより、大量の武士が失業する。だが、榎本は自分に付き従った士族たちを見捨てず、旧士族の失業対策に奔走する。

飯田橋駅東口の近くには、榎本武揚が開設した北辰社があった。現在は碑が残されている(筆者撮影)

そこで乗り出したのが牧場経営だった。当時、世間に牛乳を飲む習慣は根づいているとは言いがたい状況だったが、開国によって訪日するようになった外国人たちは牛乳を欲した。榎本は、まず外国人相手に商売をはじめ、軌道に乗ったら日本人にも牛乳販売を拡大させようとしていた。

牛乳生産を始めるにあたり、問題になったのは牧場地だった。牧場には広い土地が必要になるが、その一方で牛乳の命とも言える鮮度を保つためには都心部に近い場所で生産しなければならない。これらの条件に適う地が飯田町だった。榎本は飯田町に牧場地を構え、北辰社と命名した。

三菱は住宅地を開発

榎本が開設した北辰社は飯田町の外側に広がっていた。対して、内側は三菱財閥が住宅地を建設する計画を進めていた。

明治期から台頭してきた三菱は、政府に近づくことで成長をつづけた。東京駅前の丸の内一帯は三菱村とも称されるが、ここは陸軍の練兵場だった土地を払い下げによって入手して開発。屈指のオフィス街に成長した丸の内は、三菱の都市開発の成果でもある。

丸の内と同時に、三菱は飯田町の東隣にある三崎町も購入していた。現在の千代田区神田三崎町は、水道橋駅が最寄り駅となっている。しかし、同駅が開設されたのは1906年で、三菱が三崎町一帯のまちづくりを開始した頃に駅はなかった。三崎町の最寄り駅はあくまで飯田町駅で、三菱は飯田町駅を意識しながらベッドタウン化を進めた。

三菱のベッドタウン化によって、三崎町界隈にはレンガ長屋と呼ばれる集合住宅が建設されていく。三菱は丸の内でもレンガを象徴的に活用したが、三崎町でもレンガを多用した。丸の内のオフィス街はその華美な街並みから“一丁倫敦”と形容されたが、三崎町はその住宅街バーションでもあった。

三菱がレンガの街にこだわったのは、見た目の華やかさだけが理由ではなかった。神田区(現・千代田区)では1880年から1881年にかけて、立て続けに大火が発生して街が灰燼に帰していた。

三崎町は三菱が開発。当時は水道橋駅がなく、飯田町駅が最寄り駅だった(筆者撮影)

当時の火事対策は、なによりも街の不燃化、平たく言えば防火が最優先課題だった。大火で三崎町が焼きつくされれば、三菱は街を再建しなければならない。それには莫大な資金が必要になり、三菱にとって不経済でもあった。こうした考えから、三菱は三崎町にレンガ造の家屋を建設した。

そこまで綿密な計画を練った三菱だったが、ベッドタウン化は思うように進まなかった。他方、三菱の思惑とは異なる形で三崎町は発展していく。

「場末」の街を変えた大学

1877年、東京大学が本郷に開学。東京大学は1886年に帝国大学へと改組し、戦後に再び東京大学へと名称変更するが、キャンパスは現在に至るまで本郷にある。東京大学の開学が刺激になって、三崎町の盟主たる三菱は慶應義塾の分校という体裁で1878年に三菱商業学校を開学する。三菱商業学校は1884年には閉校してしまうが、これが刺激になり、三崎町周辺には大学の開学が相次ぐ。

1880年には東京法学社(現・法政大学)が、1885年には英吉利法律学校(現・中央大学)、1889年には日本法律学校(現・日本大学)が開学。キャンパスを移転してくる大学も多かった。1882年には専修学校(現・専修大学)が京橋から、1886年には明治法律学校(現・明治大学)が有楽町から移転した。

大学が増えたことにより、三崎町よりも郊外だった飯田町一帯にも学生が多く居住するようになった。学生が増えたことで、近隣の神保町に古書街が形成された。

場末感が漂っていた飯田町駅の周辺は、こうして著しく都市化していく。そして、飯田町の都市化に合わせるかのように、甲武鉄道が飯田町駅―中野駅間を1904年に電化した。飯田町駅に隣接して東京市街鉄道の飯田橋電停も設置された。これにより甲武鉄道の飯田町駅から市内電車に乗り換えて丸の内方面を目指すという動線が確立する。

飯田町駅は旅客も扱ったが、帝都・東京の物流を担う貨物ターミナルとしての役割も担っていた。例えば、大正期に入る頃から飯田町駅の一帯に冷蔵倉庫が目立つようになる。電化製品が少ない当時、食料品などを保管する冷蔵倉庫は貨物駅の近くに所在する必要があった。飯田町駅の一帯には冷蔵倉庫業で日本一の規模を誇る日東製氷(現・ニチレイ)の神田工場があり、飯田町駅から各地に食品が搬送されていった。

また、昭和から平成にかけての飯田橋駅界隈には印刷業・出版業が多く集まっていた。もともと江戸時代から日本橋・神田・浅草界隈は木版による印刷業が盛んだったが、明治期に入ると印刷業も近代化した。

飯田橋周辺の印刷・出版業が大きく飛躍した要因は、写真師・小川一真の影響が大きい。明治期に生業としてのカメラマンは誕生していたが、それまでのプロカメラマンは自身の写真館を構え、スタジオ撮影で生計を立てていた。そうしたビジネスモデルを小川は大きく変えていく。

小川は全国各地の風景を撮り歩き、それを印刷物として出版。写真集の販売収入で生計を立てるというカメラマンの新しい稼ぎ口を切り開いた。風景写真を撮り歩いた小川は、鉄道写真のパイオニア的な存在でもある。三菱財閥の岩崎輝弥・渡辺財閥の渡辺四郎というパトロンを得て、小川は全国を行脚して鉄道を記録した。岩崎・渡辺の莫大な資金援助もあって、撮影された鉄道写真は埼玉県の鉄道博物館に「岩崎・渡辺コレクション」として収蔵されている。

関東大震災で変わった駅の姿

小川は飯田町駅の近くに仕事場を構えたので、飯田町駅の一帯には小川のビジネスモデルを模倣した印刷所や出版社がオフィスを構えた。それが昭和・平成にまで受け継がれていた。日東製氷と同様に、飯田町駅一帯に印刷・出版業が増えたこともあり、飯田町駅に発着する貨物列車は紙を多く運んだ。

飯田町駅は東京の物流を一手に担う貨物駅として大きな存在感を発揮していたが、関東大震災によってその立場は大きく揺らいでいく。

飯田橋駅東口と従来のホーム。旧ホーム部分は東口への連絡通路となった(筆者撮影)

関東大震災後からの復興計画によって、飯田町駅は貨物と旅客の分離が図られる。1928年には、旅客駅の飯田橋駅と貨物駅の飯田町駅へと分離。冒頭でも触れたように、この客貨分離の際に飯田町駅とその西隣にあった牛込駅とを統合する形で旅客駅の飯田橋駅が誕生した。

長らく物流の中心だった飯田町駅は、時代とともに物流が鉄道からトラック輸送へとシフトしたことや、社会の変化もあって取扱量は減っていった。貨物取扱量の減少は、少なからず飯田町駅の地位を低下させた。

それでも都心部にある貨物駅として、飯田町駅は高度経済成長からバブル期までの東京の物流を担う存在でもあった。1972年には、出版・印刷業者によって飯田町駅構内に飯田町紙流通センターが設立される。飯田町紙流通センターの倉庫が情報都市・東京の基盤の出版・印刷業を支えた。

都心の貨物駅としてにぎわった飯田町駅は再開発によって景色を一変させた。当時の面影は歩道に残されたレールが伝える(筆者撮影)

だが1997年、飯田町駅を発着する貨物列車が廃止。そして、1999年には飯田町駅そのものが廃止される。国鉄分割民営化によって誕生したJR貨物が2011年まで跡地に本社を構えたが、そのJR貨物本社も2011年には新宿へと移転。跡地は再開発されて、現在は貨物列車の歴史を伝える軌道跡が歩道上に残されている。

都心部の交通結節点として

都心部の貨物ターミナル駅ということもあり、飯田町駅と貨物のエピソードは尽きない。そうした豊富なエピソードもあって、飯田橋駅の発展は貨物による恩恵と思われがちだ。確かに、飯田橋駅の歴史において貨物列車は欠かすことができない。

しかし、甲武鉄道の利用者数の推移を見ると、実は飯田町駅の隆盛、そして飯田橋駅の発展と貨物との相関関係は見いだせない。甲武鉄道が立川駅−新宿駅間を開業させた1889年の年間利用者数は、約26万9000人。そこから毎年のように微増し、1894年には約84万7000人に達する。

ところが、翌年の利用者は約242万人と前年度から3倍近い増加を記録する。これは甲武鉄道が牛込駅まで延伸した翌年にあたることから、その影響で利用者が増えたと考えられる。そして、飯田町駅まで延伸した翌年にもさらに利用者は増加し、年間約366万人となった。

飯田橋駅の旧ホームは東口への連絡通路になった(編集部撮影)

こうした数字からも、多摩方面から都心部への旅客需要は高かった。東京の場末といわれた飯田町駅は、駅周辺こそ農村然としていたが、その実態は開設当初から多摩と都心部を結ぶ重要な交通結節点として機能していた。

飯田橋駅における交通の結節点化は、昭和30年代からも加速していった。1964年に営団地下鉄(現・東京メトロ)が東西線の駅を開設。これを皮切りに、1974年には有楽町線の駅が、1996年には南北線の駅が開設された。さらに2000年には都営地下鉄が大江戸線の駅を開設した。

交通結節点として都民に利用されてきた飯田橋駅は、地形的な制約もあって駅前広場とは言い難い小さな空間しか駅前には整備されていなかった。今回、新西口駅舎とともに駅前広場の整備が予定されている。交通の結節点として深化を続けてきた飯田橋駅だが、西口駅舎の再整備により新たな役割が期待されている。

無断転載・複製を禁じます
1340051 0 東洋経済オンライン 2020/07/16 11:11:20 2020/07/16 11:11:20

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