「何もない」大崎は鉄道を支えた工業の街だった

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山手線と埼京線、湘南新宿ライン、相鉄線直通列車、りんかい線が乗り入れる大崎駅。現在は高層ビルが立ち並ぶが、2000年代に入るまで周辺には工場が並んでいた(筆者撮影)

2021年、大崎駅は開業120周年を迎える。

2002年には、りんかい線が延伸を果たして埼京線と相互乗り入れを開始。同時に南口を新設し、大崎駅のにぎわいは加速した。それまで光の当たることが少なかった同駅は熱い視線を注がれるようになった。それでも、一般的に知名度が高いとはいえない。

そんな大崎駅の存在感を高めようと、JR東日本は開業120周年を前にオリジナルキャラクター「おうさき」を誕生させた。ウサギを模したキャラクターで、大崎(おおさき)とうさぎをかけていることがうかがえる。

おうさきの誕生を知らせるポスターには、「大崎ってなにもない」「大崎止まりの山手線はいらない」「他の駅と間違って降りました」などと自虐的な文言が並ぶ。山手線の西側には池袋駅・新宿駅・渋谷駅など、指折りのメジャーな駅が連なる。そうしたメジャーな駅に近いだけに、大崎駅の存在が隠れがちになることは仕方ない。

それでも大崎駅の歴史をひもとけば、日本の近代化を牽引し、なにより鉄道の発展に欠かせなかった駅・街であることを実感できるはずだ。

明治半ばの1901年に開業

大崎駅は1901年に産声をあげた。このときは日本鉄道という私鉄の駅だった。日本鉄道は1883年、上野駅を起点に熊谷駅まで開業。翌年には高崎駅まで線路を延ばした。

大崎駅のオリジナルキャラクター「おうさき」のポスター(写真:JR東日本)

日本鉄道が高崎駅へ線路を延ばした背景には、富岡製糸場の存在がある。明治新政府が発足すると、政府首脳は富国強兵と殖産興業を2大スローガンに掲げた。殖産興業は言うならば日本の経済と産業を振興するという成長戦略だが、開国したばかりの日本にとって海外から輸入される舶来品は脅威でしかなかった。

農産品も工業製品も、メイドインジャパンは太刀打ちできない。頭を抱えた明治政府だったが、それでも茶と生糸だったら海外と勝負になることを突き止める。こうして茶栽培と生糸生産が奨励された。

生糸を大量に生産するため、政府は官営富岡製糸場を設立。富岡製糸場で生産された生糸は、高崎駅から鉄道に積み込まれて輸送された。そして、横浜港から海外へと輸出されていく。

日本鉄道が上野駅を起点に高崎駅を目指したのは生糸輸送が理由だが、当時は上野駅と新橋駅(後の汐留)との間が線路でつながっていなかった。そのため、上野駅まで運ばれた生糸は、いったん荷下ろしされて、新橋駅で再び積み込んでいた。

日本鉄道品川線の駅として開業した大崎駅。同線は現在の山手線の一部にあたる(撮影:尾形文繁)

積み替えは時間的なロスを生む。効率化と迅速化を図るべく、日本鉄道は赤羽駅から線路を分岐させて官営鉄道(現・東海道本線)の品川駅までを結ぶ短絡線を建設。高崎駅から横浜駅までが1本でつながり、積み替え作業は不要になった。これで輸送時間は一気に短縮した。

短絡線は日本鉄道品川線と呼ばれることになるが、1885年の品川線開業時には赤羽駅と品川駅のほか、板橋駅・新宿駅・渋谷駅が同時開業した。約半月後には、目白駅と目黒駅も開設されている。

鉄道に不可欠だったガラス工場

大崎駅は、それから6年遅れて1901年に開業した。翌年、大崎駅は貨物の取り扱いを開始する。これ以降、大崎駅一帯に工場が集まるようになり、鉄道の発展を下支えする原動力にもなっていくわけだが、大崎駅の開業以前、つまり前史にあたる時期にも目黒川の舟運が注目されて、大崎に工場が集まっていた。

大崎駅の開業前から操業を開始し、鉄道業界に影響を与えた企業としては品川硝子製造所と品川白煉瓦(現・品川リフラクトリーズ)の2社が挙げられる。前者は、一見すると鉄道とは無関係のように思うかもしれない。しかし、ガラス製造ができなければ、鉄道を走らせることはできない。なぜなら、高速で走る列車にはガラス窓が欠かせないからだ。

幕末には、渋沢栄一や井上勝、伊藤博文、井上馨といった、のちに鉄道業界の黎明期を支えた人物が海外に渡航した。彼らは、そこで鉄道の必要性を実感する。2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある渋沢栄一は、現在のエジプトで初めて鉄道に乗車した。当時、スエズ運河は開削工事中だったので船で移動することはできず、渋沢はスエズから地中海に面するアレクサンドリアまで汽車で移動。このとき、渋沢はガラス窓を初めて知った。

当時の日本は、江戸切子や薩摩切子といったガラス製の食器などを製造できる技術は持ち合わせていた。しかし、日本に板ガラスを量産化する技術はなかった。板ガラスの国産化と量産化によって窓ガラスは成り立つ。鉄道にとって、窓ガラスは不可欠だった。

品川硝子製造所は、三条実美の家令を務めた丹羽正庸が1873年に設立した興業社を前身とする。鉄道の推進という政府の目的もあって、工部省が1876年に買収。最終的に板ガラスの製造は成功したものの、採算にのらなかったことから工場は再び民間へ売却された。

一方、後者の品川白煉瓦も鉄道を支えるうえで欠かせない企業だった。品川白煉瓦は1875年に西村勝三が芝浦で創業。広大な工場用地を求めて、1887年に大崎へと移転してきた。

東京駅の赤レンガも多くは大崎で生産された(筆者撮影)

レンガと聞けば、赤レンガを思い浮かべるだろう。白レンガという建築資材は、一般的に馴染みが薄い。赤レンガは見た目が美しいゆえに、化粧材として使用されることが多い。それゆえに、目にする機会も多い。他方、白レンガは耐火性に優れているので、主に構造材として用いられる。近代工業を推進するうえでも必要不可欠で、富岡製糸場をはじめ東京瓦斯局や八幡製鉄所などにも使用された。

品川白煉瓦は社名からもわかるように、白レンガが代表製品。しかし、化粧材の赤レンガも製造しており、品川白煉瓦が製造した約85万個の赤レンガは東京駅にも使われている。

鉄道の塗料も大崎で

駅の開業前から、大崎駅周辺にはわが国の近代化をリードする工場が点在していた。それが貨物の取り扱いを開始したことにより、さらに工場が集積していく。

1896年、日本ペイントの前身でもある光明社が大崎に工場を移転させた。光明社は海軍専属の塗料工場をルーツとする。塗料といっても主に顔料と染料の2種類がある。専門家でなければ、顔料と染料の違いを知る必要はないが、これら2つを一貫して生産できる光明社は技術力に優れているとの評判が立ち、政府から厚い信頼を得た。

光明社も業務拡大を理由に広大な工場用地を探しており、輸送に優れているという点から大崎への移転を決めた。大崎駅の近隣に移転した光明社は、帝国鉄道庁(現・JR)の指定工場になり、車両の塗装を手がけることになる。事業拡大の必要性もあって、光明社は1898年には日本ペイントへと社名を変更した。

塗料・錆止めで傑出した技術を誇る日本ペイントは、その後も鉄道と密接な関わりが続いていく。1912年に開通した山陰本線の鎧駅―餘部駅間には、天空の橋とも形容される余部鉄橋が架けられた。同鉄橋は1915年から定期的に錆どめなど塗装のメンテナンスが必要になり、日本ペイントから専任社員が派遣されて日々の維持管理に努めていた。

日本ペイントの塗装・錆止め技術が使われていた余部鉄橋。2010年にコンクリート橋に掛け替えられた(筆者撮影)

さらに日本ペイントの名を高めたのが、1932年に発売した「ボデラック」だった。ボデラックは鉄道車両の外板用塗料として品質が認められることになり、南満洲鉄道の特急列車として歴史に名を刻んだ「あじあ」号にも使用された。こうした実績から、ボデラックは鉄道省から国鉄に改組した後も長らく使用され、国鉄から信用が厚いために私鉄でも広く使用された。

ちなみに、品川硝子製造所・品川白煉瓦・日本ペイントの3社は、現在なら京浜東北線の大井町駅のほうが近い。しかし、大井町駅が開業するのは1914年で、明治期に産声をあげた3社の操業開始後だった。

駅隣接地には明電舎

大崎駅を語るうえで欠かせない工場といえば、1915年に駅の隣接地に移転してきた明電舎が挙げられる。同社は総合電機メーカーとして国内外でも高い評価を得ているが、創業者の重宗芳水は鉄道部品のメーカーだった三吉電機工場で修行を積んでいる。

三吉電機工場は鉄道のほかにも多くの機械製造を手がけていたが、東京市街鉄道(現・東京都交通局)や京都電気鉄道(現・京都市交通局)などに部品を供給し、線路の電気施設の建設やメンテナンスなどに強みを発揮していた。独立した重宗は、修理などを請け負う工場を細々と経営していたが、変圧器や発電機の製造を機に工場を拡大していった。

明電舎は主に発電所関連の機械を製造していたが、1922年に開催された平和記念東京博覧会に出展した回転変流機が鉄道業界から大きな注目を浴びる。回転変流機は電気を交流から直流へと変換する装置で、同製品によって鉄道業界からも盛んに声がかかるようになる。

1927年に開業した高尾登山鉄道では、明電舎の電動機が採用された。高尾登山鉄道が運行するケーブルカーは、その運行区間が急勾配だったために建設も難工事だったが、車両や電動機も相当の性能が必要だった。明電舎の電動機は、それに応えられる性能だった。1932年には、秋葉原駅でエスカレーター用電動機が、日光登山鉄道で高圧捲線型誘導電動機が採用された。

鉄道業界を支える工場が集まり始めた明治末の地図を見ると、大崎駅に無数の側線が確認できる。そこからは、すでに大崎駅が貨物駅として活況を呈していることを読み取れる。

しかし、明電舎が大崎駅から鉄道貨物輸送を始めたのは意外にも遅く、1940年ごろとされている。当時、大崎駅と明電舎の工場とを結ぶ引込線がなかったため、大崎駅までは自動車で製品を運搬していた。製品の大型化や輸送効率の観点から引込線が求められるようになり、1955年に完成。以降、貨物輸送が頻繁に行き交った。

明電舎とともに大崎を代表する工場として記憶されるのが、日本精工(NSK)だろう。ベアリングでは国内トップメーカーのNSKは、1916年に設立。明電舎と同様に、NSKは大崎駅に隣接するように工場を構えた。NSKも鉄道とは関係が深く、1932年には鉄道省(現・国土交通省)から依頼を受け、ガソリン動車のベアリングを開発。1964年に開業した東海道新幹線にも、同社のベアリングが採用されている。その後もNSKは最新技術で鉄道を支えている。

工場跡地が新たな街に

これら大崎駅一帯の工場は、戦後復興や高度経済成長を大田区の町工場とともに支えた。しかし、バブル期を経て平成の30年間で駅周辺は大きく変貌した。いまだオフィスを構える企業はあるものの、工場機能は地方へと移転が進められた。それに伴い、大崎駅周辺には広大な跡地が残り、そこが再開発されている。再開発後は高層のオフィスビルに変わり、明治期から近代工業を牽引してきた大崎の面影は薄くなった。

大崎駅界隈のオフィスビル化が進む中でも、存在感を発揮したメーカーもある。それがソニーだ。ソニーは、非接触型IC乗車券の技術として用いられるFeliCaを開発。2001年、JR東日本がSuicaにFeliCaの技術を採用したことでIC乗車券は普及した。

ソニーと鉄道の関係はそれだけではない。創業者の井深大は、鉄道総合技術研究所の初代会長を務めた。研究所内には、井深の功績を称える井深通りが今も存在している。そんなソニーも2007年に本社を大崎駅から移転したが、大崎駅界隈ではITベンチャーが次々に勃興している。これらITベンチャーの多くは、取引や技術開発などでソニーの影響を受けて成長してきた。

昨年11月から相鉄とJRの直通運転が開始されるなど、大崎駅は動線にも変化の波が押し寄せている。大崎駅の周辺には、今後も再開発の計画が持ち上がっているだけに、これからも注目エリアとして存在感を発揮することは間違いない。

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1557195 0 東洋経済オンライン 2020/10/22 09:11:37 2020/11/05 01:05:04

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