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深谷駅はなぜ「東京駅そっくり」になったのか

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レンガで結ばれた関係であることをPRするため、深谷駅は東京駅を模したデザインだ(筆者撮影)

2月14日から放送が始まったNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、日本資本主義の父・渋沢栄一が主人公。渋沢の出生地は血洗島(ちあらいじま)で、現在の深谷市にあたる。

深谷市の玄関口であるJR深谷駅は、東京駅を模したデザインの駅舎で知られる。東京駅が深谷市産のレンガを大量に用いている縁から「レンガの街」をアピールする意味を込めて1996年に改築された。明治期、新たな建築材料だったレンガが日本国内に普及するうえで渋沢が果たした役割は大きい。その重要な供給元として発展を遂げたのが深谷であり、そして出荷を支えたのが鉄道だった。

渋沢栄一とレンガの関わり

1840年、豪農の家に生まれた渋沢は、ひょんなことから徳川慶喜に仕える。1867年、慶喜の弟・昭武がパリ万博に派遣されることになると、慶喜から信頼を得た渋沢は、会計係・世話役として随行した。パリ滞在中、昭武はイタリアやオランダなど周辺各国を巡歴。渋沢もそれに同行し、ヨーロッパ諸国の文明や文化に大いに刺激を受けた。

日本に戻った渋沢は、大政奉還によって将軍から退いた主君・慶喜に付き従って静岡へと居を移すが、明治新政府の首脳たちは渋沢の才能を見逃さなかった。だが、渋沢は新政府に出仕したものの、わずか数年で退官。以降は民間人として500社にも及ぶ企業の設立・経営・支援に関わっていく。

民間に転じる直前、渋沢は活動の母胎となる第一国立銀行を設立。これを皮切りに次々と企業を興していくが、短い役人時代に手がけた事業もある。それが、1872年に群馬県に設立された官営富岡製糸場だった。

政府が富岡製糸場を官営工場として設立した背景には、政府の2大スローガン「富国強兵」と「殖産興業」の牽引役として期待していたことが挙げられる。富岡製糸場は国家の威信を懸けた工場だったため、最新鋭の技術を駆使して建設された。当時は珍しかった赤レンガがたくさん使われているのはそのためだ。

渋沢は富岡製糸場の建設に大きく関与するが、翌年に政府と東京府(現・東京都)が共同で取り組む銀座煉瓦街の建設にも大きく関与している。

深谷駅北口の駅前広場にある渋沢栄一像(筆者撮影)

銀座煉瓦街は1872年の大火をきっかけに建設された。銀座や丸の内一帯を焼き尽くした大火は、発足したばかりの明治新政府に大打撃を与える。すぐに明治新政府は銀座の復旧を開始する。純和風の家屋が立ち並んでいた銀座は、井上馨が主導して異国情緒を醸すレンガの街並みへと生まれ変わっていった。井上の部下だった渋沢も銀座煉瓦街の建設に積極的に関わった。

群馬県の富岡製糸場と東京の銀座煉瓦街、両者にはレンガという共通点がある。富岡製糸場がレンガ造で建設された理由は耐震・耐火を意識したものだが、銀座煉瓦街はそこに文明開化という要素も加わっていた。煉瓦街は視覚的に絶大な効果をもたらし、銀座は日本を代表するトレンド発信地へと成長する。

見た目が華やかな赤レンガの街並みを多くの人が目にし、それが端緒となって、それまでの木造に代わって多くの建物がレンガ造に建て替えられていく。建物によって文明開化の意識は高まり、さらに生活全般に及んでいく。

レンガ造を推進した井上は、幕末にイギリスへ密航留学している。井上はヨーロッパが文明先進国であることを痛感し、日本を文明国にするためにはレンガ造建築を奨励するのが早道だと悟った。その経験が、銀座煉瓦街につながっている。

渋沢が見いだしたもう1つの利点

一方、渋沢は井上の考え方を全面的に同調しつつ、それ以上にレンガ造を推進するメリットにも気づいていた。渋沢が見いだしたレンガ造のメリットは、江戸幕府から明治新政府へと政治体制が切り替わったことによって食い扶持を失った旧士族の救済だった。

江戸幕府が鎖国を解いて多くの外国人が日本へやって来るようになると、自然と西洋技術も日本にもたらされるようになる。1861年には長崎鎔鉄所が国内初のレンガ造建築として竣工している。当初はレンガ造の建築物は多くなく、需要も小さかった。そのため、レンガ生産もレンガ造建築も従来の瓦職人や大工・左官職人の手によって賄われていた。

だが、銀座煉瓦街の建設で大量のレンガが必要になると、現在の荒川区・足立区にあたるエリア一帯に工場が次々と誕生。それでも生産が追いつかず、警視庁は東京集治監(現・東京拘置所)でレンガ生産を開始した。やがて、瓦職人や大工・左官職人だけでは生産・施工が賄いきれなくなる。そこで、失業した武士がそれらの職を担うことになった。

レンガの生産・レンガ建築の施工という新しい仕事を生み出し、それを士族授産にしていくというアイデアは旧幕臣の渋沢ならではといえるが、当時のレンガは未知の建築資材。大量かつ高品質なレンガを生産することは容易ではなく、建築資材として通用するレンガは思うようにつくれなかった。

深谷市内の渋沢の生家近くには「渋沢栄一記念館」がある(筆者撮影)

早急にレンガの大量生産を軌道に乗せる必要性から、渋沢は出生地・血洗島の隣村の上敷免にレンガ製造工場を設立した。この地を選んだのは、単に渋沢の縁故という理由だけではない。上敷免はレンガに適した良質な土が採取できる。そのうえ、富岡製糸場にも銀座にも近いことから、供給地としては最適との判断があった。

工場は1887年に操業を開始した。こうして、日本でも本格的なレンガ生産が始まり、本格的なレンガ建築の時代を迎える。そして、このレンガ建築時代を支えたのが、ほかならぬ鉄道だった。

日本初の民間専用線はレンガ工場

1883年、上野―熊谷間の鉄道が私鉄の日本鉄道(現在の東北本線などを建設)の手によって開業した。

日本鉄道は華族たちが出資した私鉄で、渋沢も経営陣として名を連ねていた。設立の目的は開発が遅れていた東北地方の振興という面が強かったが、東京から東北地方までは遠く、そのためだけに線路を敷設することは不経済だった。経営効率の観点から、手始めに日本鉄道は近くに富岡製糸場がある高崎駅まで線路を建設した。

生糸は当時の日本で数少ない海外製品に太刀打ちできる輸出品で、迅速かつ大量に横浜港へと運ぶことが至上命題になっていた。生糸を鉄道で大量輸送できるようになれば、それは日本の国益にもかなう話だった。そうした背景もあり、日本鉄道の建設には政府も協力を惜しまなかった。

上野―熊谷間で開業した日本鉄道は、3カ月後に本庄駅まで延伸する。熊谷駅と本庄駅の中間には深谷駅が開設された。つまり、日本煉瓦製造の上敷免工場が操業を開始した時点で、すでに深谷駅は開業していた。

しかし、当初は鉄道を使うことなく、舟運によって製造したレンガを運搬していた。工場は小山川に面し、小山川は利根川へとつながっている。これらの舟運を活用することで、大量のレンガを輸送できると考えていたようだ。その後、増える需要に対応するべく、日本煉瓦製造は1895年に深谷駅から分岐して工場へと通じる専用線を建設。民間企業が敷設した専用線の国内第1号になった。

深谷駅からの専用線敷設と前後するが、1885年、伊藤博文内閣が発足。初代外務大臣に井上馨が就任した。

井上に与えられたミッションは不平等条約を改正することだったが、伊藤はほかにも井上に託していたミッションがあった。それは、帝都・東京を大改造することだった。伊藤は内閣直属の特命部署として臨時建築局を設置。井上を総裁に抜擢する。

当時、各官庁の庁舎はあちこちに点在していた。政治・行政を効率的にするには、官庁の集中配置が欠かせない。銀座煉瓦街を立案・主導した井上は、官庁集中計画でもレンガを多用することを考えていた。さらに井上は、官庁だけではなく中央ステーションや議事堂といった主要建築物もレンガ造で建設することを構想していた。この計画を実現するには、日本煉瓦製造で生産されたレンガが必要不可欠だった。

だが、官庁集中計画に傾注しすぎてしまったため、井上は外務大臣本来の使命だった不平等条約の改正に失敗した。その責任を取る形で外務大臣を辞任し、臨時建設局総裁も退任。主を失った臨時建設局は役割を閉じていく。レンガ建築物が並ぶ官庁集中計画は白紙に戻されることになり、計画は司法省(現・法務省)庁舎と大審院だけが実現して幕を下ろした。

丸の内をレンガ色に

官庁集中計画は頓挫したものの、レンガという新しい建築資材は引き続きムーブメントを巻き起こしていた。

レンガのムーブメントは、ジョサイア・コンドルという偉大な建築家を伴って東京・丸の内にも到来する。丸の内の広大な土地は三菱が所有しており、コンドルは三菱から依頼を受けて丸の内一帯をレンガ建築一色にしようと構想した。

丸の内に復元された三菱一号館(写真:Caito/PIXTA)

ところが、構想段階だった1891年に濃尾地震が発生。被害の中心地だった名古屋をはじめ岐阜など広範囲にわたり多くの建物が倒壊した。被害は木造だった個人住宅だけではなくレンガ造で建設されていた銀行や庁舎にも及んだ。

三菱の2代目総帥だった岩崎弥之助は丸の内をレンガ造建築で埋めることに一抹の不安を覚えた。そこでコンドルに視察を命じ、場合によっては丸の内のレンガ造を一からやり直すことも視野に入れていた。

視察の結果、コンドルはレンガ造が地震に弱いのではなく、施工方法に問題があったと結論づける。コンドルの調査結果を踏まえ、耐震性を増したレンガ造で三菱一号館が竣工。それを皮切りに、レンガ造の建築物が丸の内に誕生していく。

レンガ需要の高まりを受け、各地でレンガ製造工場の建設が相次ぐようになる。日本煉瓦製造も生産量を増加させており、1893年に開通した旧信越本線の碓氷峠第三橋梁にも日本煉瓦製造製のレンガが使用された。

三菱一号館から始まる丸の内レンガ建築群の掉尾を飾ったのは、1914年に開業した東京駅だ。東京駅には約927万個のレンガが使用されているが、そのうち日本煉瓦製造が生産したレンガが約833万個、品川白煉瓦(現・品川リフラクトリーズ)が生産したレンガが約94万個使用されている。ちなみに、渋沢は品川白煉瓦の経営にも大きく関与している。

レンガ建築とレンガ製造は、日本の近代化に大きな役割を果たした。だが、関東大震災などを経て建築材料の主力はコンクリートなどに移り、時代とともにレンガの需要は減退。1975年に深谷駅と日本煉瓦製造の工場を結ぶ専用線は廃止された。そして、渋沢が立ち上げた日本煉瓦製造は2006年に解散という道を選んだ。

深谷「レンガの街」の誇り

それでも、深谷市は「レンガの街」であり続けている。

深谷駅南口から見た駅舎。表面はレンガを模したタイル張りだ(筆者撮影)

東京駅が深谷市産のレンガを大量に用いている縁から、レンガの街をアピールする意味も込めて、深谷駅は1996年に東京駅を模したデザインへと改築されたことは前述した。しかし、改築された深谷駅の外観は東京駅とそっくりになったものの、耐震基準の関係からレンガを使うことはかなわなかった。そのため、深谷駅はタイル貼りになっている。

約16万個のレンガを使用して新装した深谷市本庁舎(筆者撮影)

レンガの街・深谷市は、大河ドラマ「青天を衝け」放送に合わせるように2020年に本庁舎を改装。新庁舎は約16万個のレンガを使った建物へと生まれ変わった。また、市は「レンガのまちづくり条例」を制定。同条例では駅前から市役所本庁舎までを範囲に指定し、一帯の道路をレンガ舗装へと整備する。さらに補助金をつけて、民間企業の店舗・事務所や個人住宅の外壁・外構にもレンガを積極的に使用するように働きかけている。

深谷駅前をレンガ街へと生まれ変わらせようとする取り組みは、渋沢が顔になる新1万円札が発行される2024年までに間に合わせる予定で進む。

時代の波に揉まれながらも、深谷市のレンガに込める思いは微塵も揺らいでいない。

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1861397 0 東洋経済オンライン 2021/03/04 09:00:51 2021/03/04 09:00:51

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